2021年3月4日(木)の手紙

2021年3月4日(木)


『ダビデの子に、ホサナ。』マタイによる福音書21章9節


私たちが何度も学んだイエスのエルサレム入城の記事である。

イエスは、「ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。
それを解いてわたしのところに引いてきなさい」と言われた。

7節には、「ろばと子ろばとを引いてきた。
…イエスはそれにお乗りになった」とある。

イエスはろばに乗られたのか、それとも子ろばに乗られたのか、はっきりしない。
ある人の絵にイエスがろばに乗られ、そのあとから子ろばがついていくものがあるが、それが自然だろうと思う。

その絵を見て私は思った。
このろばはイエスから召し出されたときに、子ろばのことが心配だったろう。
その中で子ろばはろばのあとに従った。

私たちもいろいろの問題を携えてイエスに従っていくが、それは信仰の一面を示している。
時には、この子ろばを捨ててイエスに従っていかねばならないこともあるだろう。

信仰生活には、これが正しいという数学の公式のようなものがあるわけではない。
そのときどきに、神の御旨を求めて御心にかなうような歩みをしていくことが大事なのだ。

イエスが入城されたとき、群衆は、「ダビデの子に、ホサナ」と叫んだ。
ホサナとは、救いが私にあるようにという意味である。
群衆はどんなに喜んでイエスを迎えたか。

宗教は沈滞し、政治は腐敗し、民衆は生活に苦しみ絶望的状態であったとき、イエスは彼らが待ち望んだ英雄であり、理想の解放者であった。
しかし彼らは、二、三日するとそのイエスを十字架につけよと叫び狂うほどに変わった。

人々の称賛はまことにむなしい。
同じように人の嘲笑も真理に立っていないゆえにむなしい。

私たちは「みんな」という言葉をよく使う。
そしてみんなは、すなわち正しいという考え方がある。
これは民主主義の大きな欠点ではないか。

多数の意見が真理である場合もあるが、そうでない場合が多く、むしろ真理はいつも少数者によって主張されてきたものであることは、歴史が証明している。

一人の指導者のために政治がなされるのでなく、民衆の一人のために政治が行われていくところに民主主義のよさがある。
しかし多勢の意見が正しいというふうにマス・デモクラシーになっていることが、現代の災いではないか。

群衆の意見が真理であるという考えを持つと、群衆におもねり、群衆を操作しようとすることが行われていく。
それが政治の腐敗につながっていく。

群衆の称賛も嘲笑もむなしいものであり、共に真理の声ではない。

大事なのは、何が真理であり、真理でないかをしっかり見きわめることである。
預言者はその時代の人から迫害され、のちの人々からその墓を建てられるとイエスは言われた。

イエスは、人々の歓迎におぼれなかった。
そこにイエスのすばらしい生き方を見ることができる。

God Bless You!!


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