2021年3月30日(火)の手紙

2021年3月30日(火)


『神の言が荒野で……。』ルカによる福音書3章2節


ヨハネは預言者の終わりとして、神からつかわされた者であると告白されている。

「神の言が荒野で」ザカリヤの子ヨハネに臨んだ。
預言者にとって、何よりも大事なことは、神の言葉を聞く、神の言葉が与えられる、神の言葉が彼に臨むことであって、頭がよいとか、手腕があるとか、どれほどの指導力があるとかということは問題ではない。

たとえばアブラハムに神の言葉が臨んだと、創世記の記者は記しているが、アブラハムにとって決定的なことは、彼が神の言葉を聞いたことである。
神の言葉が臨むことは、私たち信仰者にとって、最も大事なことであり、よりどころである。

だから私たちは神の言葉を聞くことに、懸命にならねばならない。

クリスチャン生活とは、かくあるべしと考えるのも決して悪いことではないが、その根源である神の言葉を聞くことにこそ、私たちの霊的な命があることを忘れてはならない。

ここでは「神の言が荒野で」とことさらに荒野を強調している。
その当時、エルサレムの神殿のおごそかな礼拝や宗教儀式にこそ、神の言葉が臨んでくると思われていた。
しかし、そういう神殿に神の言葉が臨んだのではなく、荒野で神の言葉が臨んだのである。

これは当時の形式宗教に対する一つの挑戦と言える。

宗教は一定の形をとると、その形の中で満足しやすい。
たとえばクリスチャンは礼拝に出ておればそれでよいとか、献金さえしておればそれでよいというふうに、私たちは陥りやすい。

いつもそういうところに安住しようとする私たちを、むち打っていかねばならないのだ。

神と私たちの関係は、もっと生きた関係であることを忘れてはならない。
内村鑑三の書物が非常によく読まれるのは、彼の文才や学識によるのではなく、彼がいつも神と四つに組んで生きていったその姿、神なしには生きていけないところにいつも身をおいた彼の文章が、人の心を満たしているからであると思う。

「荒野で」という言葉は、神の言葉が宗教家やエルサレムの神殿に臨んでくるように思いやすい私たちの考え方に対する、アンチテーゼであると思う。
そういう意味でキリスト教は荒野の宗教である。

荒野に自分をおいていくことは不安であるが、「荒野で恵みを得た」という言葉があるように、不安の中でだれにも依り頼めないようなところに、自分をおいていくように心がけることが、キリスト信仰においては大事であると思う。

God Bless You!!


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