2021年3月26日(金)の手紙

2021年3月26日(金)


『それを見たら信じよう。』マルコによる福音書15章32節


「夜が明けるとすぐ」イエスをピラトのところへ連れていった、「全議会」を召集した、これらの表現は、イエスひとりの問題を取り扱うには大げさなことである。

祭司長たちはなぜそれほど躍起になって、イエスを殺そうとしたのか。
それは、群衆が自分たちから離れ、イエスのもとに集まったという現実を妬んだからであった。
イエスさえ殺せば、群衆は自分たちのところへ帰ってくるであろうと思ったのである。

「それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである」とあるように、群衆は祭司長たちから離れた。それは彼らに群衆を引きつける力がなかったからである。

彼らは外側の着物を飾り、おごそかな行事はするが、イエスのように人をよみがえらせる力もなく、権威ある言葉も語れなかった。
彼らには命がなかったのである。

問題は、外側でなく内側がどうであるかなのに、祭司長たちは、自分たちの立場を肯定し、イエスを殺すことによって体面を保とうとした。
そこに彼らのあせりと、誤りがあった。

しかし、このことは私たち自身にも見られるのではないか。
自分の信仰をふり返らず、信仰的に恵まれている人を批判し、自分の立場を守ろうとする衝動に駆られてしまう。
大事なのは、私たちが神の前に何を与えられ、何によって生かされているかを知ることである。

私たちはどんな小さな言葉や行為を見ても、それを自分自身が神に帰る機会にするほどに、心がやわらかでなければならない。
信仰者にとっては、いつも心が砕け、やわらかであることが、そしてきょうも神の前に生かされている者であるという謙遜さを見失わないことが大切なのだ。

イエスは、当時の人々にとって、彼らが抹殺しようとするほど好ましからざる人間であった。
私たちが信仰生活をしていくのが、だれにも喜ばれるものだと考えるのはまちがいである。

パウロは「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。
……もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」と言っている。

私たちの目標は、神の前に正しく生きることである。
その目標に向かって進むとき、この世の称賛、また迎合を目的としてはならない。
私たちはいつも目標をはっきりと知り、この世の騒ぎや迫害に心を動かされないようにしなければならない。

God Bless You!!


a:51 t:1 y:0