2021年3月16日(火)の手紙

2021年3月16日(火)


『あなたの娘はなくなりました。』マルコによる福音書5章35節


第5章では、けがれた霊につかれた人、ヤイロの娘、次いで長血をわずらった女の三つの物語が出てくるが、それぞれが人生のいろいろな問題を持った人たちである。

そんな人たちがイエスに出会い、もう一度人生を回復すること、これがこの5章の大きなテーマであろう。

さて、この三つの物語には、ひとつの共通したものがある。
それは犠牲ということである。

第一の物語では、イエスはひとりの人を正気にするために、豚二千匹余りを犠牲にされた。
それは当時の人にとっても大きな財産の損失であった。

私たちはそれほどの犠牲を要求されてなお、イエスを喜んで迎えることができるだろうか。
犠牲を求めないイエスのみを歓迎するような思いが、私たちの中にあるのではなかろうか。

私は今度、台湾へ行くが、心の片隅には、これは大変だなという思いがある。
しかし神の子イエスが人間になられ、人の世に住まわれることが、どんなに屈辱的で、不自由で、痛いことであったかということに比べると、針の穴より小さいことである。

そのようにまでして来てくださったイエスが、豚二千匹を犠牲にされるからといって、イエスを追い出しているようでは、ほんとうに主を迎えることはできない。

次はヤイロである。
彼がイエスに娘を助けてほしいと願ったとき、イエスはすぐに出かけられたが、途中で長血をわずらう女と出会う。

イエスに早く来ていただきたいヤイロは、イエスがこの女に語りかけたとき、ほんとうはいらいらしたことであろう。
そのうえ、娘は死んだと告げられたことは、彼にとって最大の犠牲であった。
しかし、ひとり娘を手放したところから、神の憐れみがどんなに深いかを、彼は知ることができたのである。

最後は長血をわずらう女である。
血漏の女はけがれた者と見なされ、当時そのような女が公衆の前に出ると死罪になると定められていた。
だから彼女にとって、イエスに近づくということは、自分の命を捨てる覚悟なしにはできなかった。

私たちも、イエスに近づいていくためには、死を覚悟しなければならない。
その犠牲を恐れるばかりに、私たちはいつも遠くに立ってイエスを眺めているだけで、イエスの手に触れることも、イエスの声をはっきりと聞くこともできないのである。
イエスは、そうした犠牲なしには、ご自分の業をなさらなかったかたであることを、この三つの物語から学びたいと思う。

God Bless You!!


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