2021年2月28日(日)の手紙

2021年2月28日(日)


『これに聞け。』マタイによる福音書17章5節


8節までは山上の変貌と言われるところである。

イエスはピリポ・カイザリヤで、「あなたは神の子である」というペテロの告白を受け入れ、その後、神の子の道は栄光の道ではなく、多くの苦しみを受ける道であり、殺されてのちよみがえるという十字架の道であることを示された。

私たちはイエスの足あとを慕っていかなければ、イエスに出会うことはできない。
イエスが十字架についているのに自分は安楽いすに腰かけていたのでは、神の栄光にはあずかれない。

私たちの信仰に力が出てこないのは、画像に映し出されたイエスを見ているからであって、私に近づき、私に手をおき、私の内から悪霊を追い出してくださるイエスに出会わないからである。

それは、私たちが何一つ失うまいとするところに原因がある。
もっと失うことに大胆にならなければならない。
それがキリスト教信仰の要諦である。

いくら大きなことを言ったり、したりしても、失うことを恐れる者は、イエスの弟子として栄光にあずかることはできないのだ。

さて、イエスが変貌をとげられたときに、ペテロは、「わたしはここに小屋を三つ建てましょう」と言った。
それに対して天の声は、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」と言われた。

私たちは、神に何かをし、それが神に喜ばれることであると思う。
せめて小屋ぐらいは神のために建てようと考える。

しかし私たちにとって大事なことは、何かをするというのでなく、イエスの言葉を聞くことである。
聞くとは、聞き流すことではなく、聞き従うということである。

私たちはいつもいろいろな声を聞いている。
あるときは神の声を、あるときは自分の声、本能の声、勝手気ままな声を聞いている。
しかし、その中でいつも神の声、キリストの声を聞き、それに従っていくことが大事である。

大事なのは、「これに聞け」ということである。

この世にあって、神の声を聞くということは、決して楽しいことではない。
弟子たちは、これを聞いて恐れ、顔を地に伏せたとある。
地上の生活をしながら、神の声を聞くことは恐ろしいことなのだ。

しかし、イエスは恐れている弟子たちに近づいて、手をおいて言われる。
恐れの中で、イエスとの出会いが起きてくる。

私たちは、自分の信仰生活の中であまり恐れを感じない。
できるだけ恐れを避けようとする。

「信仰は賭けである」というパスカルの有名な言葉があるが、多くかけていけばいくほど恐れがあると思う。
神の言葉にかけていくことは、一つの恐れを起こすものである。

しかし、その恐れの中でこそ私たちに手をおき、恐れることはないと言ってくださるイエスに出会うことができるのである。

God Bless You!!


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