2021年2月26日(金)の手紙

2021年2月26日(金)


『主よ、 わたしをお助けください。』マタイによる福音書15章25節


ツロとシドン地方にいたカナンの女性の話が21節から書かれている。

「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。
娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と叫び続けた女に対して、イエスはひと言もお答えにならなかった。

なぜ愛の人イエスが、子どものために悩み苦しんでいる女に何もお答えにならなかったのだろうか。
さらに、おまえのような外国人とは関係がないのだとまで言われたのはなぜか。

それを解く鍵は次の言葉にある。
「女は近寄りイエスを拝して言った、『主よ、わたしをお助けください』」。

はじめ彼女は憐れんでくださいと、次にはお助けくださいと言った。
よく似た言葉であるが、その言葉を聖書で使う場合、違いがある。

憐れんでくださいという語は、「しかしできますれば」と対応している言葉の場合がある。
女ははじめ立ったままで、どうぞ私を助けてくださいと言ったが、次にはひれ伏してお助けくださいと言った。

そこに質的変化が起きている。

それは、あなたがもし私を憐れんでくださることができるなら憐れんでくださいというのではなく、あなたよりほかに私は助けていただく道はないという態度である。

それでもイエスは、屈辱的なことを言われた。
「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。

すると女は、「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と言った。
小犬でけっこうです、それをどうぞ私にください、というのが、イスラエルの家の失われた羊だと思う。
どこまでも神の前にへりくだる姿勢、これである。

神は私たちに、ご自分の目的のためにいろいろなものをお与えになる。
試練を受けるときにもそこに目的があるとすれば、それを感謝して受けとらねばならない。

病気、痛み、どうしても理解できないこと、しかしそれらすべてが神の目的のもとに与えられているとすれば、大きな感謝を持って受けとらねばならない。
「おまえはこれから一生病床にあって苦しい生活をしていけ」と言われるならば、それを感謝して受けとっていくのが私たちの信仰である。

神を利用して自分が楽しい生活を送るというような、自己中心であってはならないのだ。

この女は、二度目のときには娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいますとは言わなかった。
ということはイエスに、ただ助けていただきたい、あなたが共にいてほしい、共にいてくださるなら、私は子供の病気がなおらなくてもけっこうです、あなたが与えてくださる意味、目的を信じさえすればけっこうです、と言ったのである。

私たちは自分がなくなるというか、自己中心でなく、イエスの主の祈りで数えられたように、御名があがめられますようにという信仰でなければならない。

God Bless You!!


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