2021年2月25日(木)の手紙

2021年2月25日(木)


『あなたがたの手で食物をやりなさい。』マタイによる福音書14章16節


13節からはハンの奇跡の話が語られている。

イエスの話を群衆は時を忘れて聞いていた。
時はたち夕方になり、人々は空腹となる。

私たちがこの世に生きる間は、この世での制約がある。
空腹にもなり、餓死さえする。
私たちの信仰は、いつも自然の法則、この世の道理に直面するのである。

そこで弟子たちは、この世のことはこの世の道理や法則に従っていかねばと考え、「群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」と言った。

私たちもそうである。
一生懸命聖書を読みたいと言う人はたくさんいる。
しかし「先生、読みたくても時間がないのです」と言う人がそこで問題としていることは、この弟子たちと同じである。

この世の道理に信仰生活が直面したときに、信仰をやめ、この世に従うならばそこに十字架はない。
十字架は、この世の道理を突き抜けていくところにあるのだ。
だからイエスは、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われた。

ちょっと困ったら教会へ行くのをやめておこう、きょうは聖書を読むのをやめにしようというふうにしていたら、私たちは神の栄光を見ることはできない。
どんなにすばらしい生活をしていても、神の栄光を見ないなら、その人の人生はちりのようなものである。

現代の社会制度には不平等があり、搾取が行われているから解決されなければならない。
しかし、どんなに多くのものを持ち、外側だけをととのえても、それで満足のできるものとはならない。
だからといって外側のことはほっておけとも言えない。
私たちの目標は人生にとって最も意義あるものは何かを考えることである。

戦時中にくらべてぜいたくになってきたが、それが躍り上がるような喜びにはなっていない。
物というものはほんとうの喜びを与えない。
神は私たちを谷底や暗いトンネルの中に導いて、神の栄光を見させようとされる。

イエスは、「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われた。
手というのはささげる手である。

私たちのなすべきことは、神にささげていくことである。
私たちが持っているものを神にささげたとき、神はまったく違ったものに変えてくださり、価値あるものとして私たちに賜るのである。

その、神から返されたものが、やがて五千人以上の人を飽かしめるような働きをすることができるのである。

God Bless You!!


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