2021年2月24日(水)の手紙

2021年2月24日(水)


『良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって…。』マタイによる福音書13章23節


第13章は、イエスがもたらされた福音を譬えで話されたところである。

種まきの譬えに始まり、毒麦、からし種、パンの譬え、次いで毒麦の譬えの説明、次には宝を隠している畑、真珠、海、海におろされた網などが語られている。

これらの物語の核心をつかまえないと、イエスがそこで何を語ろうとされているのかを見のがしてしまう。

まず種の譬えであるが、種には命があるということである。
御言葉には命があるということが、イエスがここで言おうとしているメッセージである。

聖書は二千年も前に書かれたものであり、昔話のように言う人がいる。
確かに聖書は二千年前のものであるから、それをそのまま信じていくということが最も正しい読み方とは言えないと思う。

二千年という時や、日本とパレスチナという空間的な隔たりがあるのに、いまここで起きていることのように聖書を読んでいくことは、私たちの主観で曲解することになると思う。
そういう意味では、聖書は確かに二千年前のもので、かびも生え、しわもあると思う。

しかし問題はそこに生命があるかどうかということである。
種に命がなければ、水をやっても、肥料を施しても、そこからは何も成長してはこない。

イエスが天国を語られるのに、種というものを繰り返し語られたのは、御言葉には命があるということであり、このことをしっかり覚えなければならない。

聖書の言葉には命がある。
私たちがそれをしっかり受けとめていったならば、「御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」という言葉のとおり、私たちの生活を変えてしまうような力が起きてくるのだ。

松山のMさんは、数年前突然目が見えなくなり、失望落胆の中にあったが、最近会ったとき、こう言われた。
「私は目が見えなくなったから信仰を持ったのではないが、このことが契機となって神を見いだすことができた」。

いったいだれがこのようなことをすることができるか。
この人をこのように変えたものは御言葉である。

だから私たちは御言葉を大事にしなければならない。
ただ聞き流したのでは、そこからは何も起きてこない。
それをどのように受け止めていくかが私たちの責任なのである。

イエス・キリストの出現までには、多くの人たちは懸命に修行したり、聖書を詳細に調べたり、難行苦行を積んで真理の奥義を求めていったのだが、なかなか得ることができなかった。

しかしそれをいまあなたがたは、労せずして与えられており、手にふれ、目で見ることができるのだ。
だからそれを受けとっていくということが大事なのである。

God Bless You!!


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