2021年2月22日(月)の手紙

2021年2月22日(月)


『そこを立ち去られた。』マタイによる福音書11章1節


イエスは、「そこを立ち去られた」と一節にある。

イエスは立ち去られるかたであることを学びたいと思う。
神は私たちがいつでも帰ってくるのを待っておられるかたであるとともに、また私たちのところから立ち去られるかたでもある。

私たちはともすると、いまの信仰が自分にとって充実したものであるとは思わないが、いつかは充実した信仰生活を送ることができるようになるのだと思うことがよくある。
そういう考えが、私たちの信仰生活をいつもだめにしているのではないだろうか。

「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ」と言われているが、私たちが神の言葉を聞いたり、従ったりできるときに、しっかりとその言葉を聞くことが大事である。

私が開拓伝道時代に一つ心残りのことがあった。
当時、ある若い女性がよく教会に来ていた。
心のきれいなというか、純真な人だったので、信仰に入ればよいのにと思っていた。

復活節のときに、「もう洗礼を受けたらどうですか」と言ったら、「クリスマスに受けます」と言われた。
それもよかろうと思ってクリスマスまで待つことにした。
ところがその後、ご主人が転勤され、住まいも教会から遠くなってしまいとうとう私がいる間に洗礼を受けることがなかった。

そして二年後、その家庭は破れてしまった。

私が今治に移ることになり、別れに来てくださったとき、私は申しわけないことをしたと思い、「すみませんでした」と言ってお別れしたことがある。

いつでも備わっていると思うことが信仰をだめにすることがある。
イエスとの出会い、いまというものをたいせつにしていくことがほんとうに必要だと思う。

私たちがいま早天祈祷会に来ていること、いま神の言葉をすなおに聞けることは、私たちの努力だけによるものではない。
心が閉じてしまうときには、いくら聖書を読んでも、無味乾燥なものになって、そこから感動も喜びもわいてこないという経験をすることがある。

いま、もし神の言葉が慕わしく聞けるのであれば、それこそ最も神に祝された時なのである。
そういう時をこそ、たいせつにしていかねばならない。

私たちはいつしか神の愛に甘えて、私たちがどんなことをしても忍んでくださり、いつまでもいてくださると思いやすい。
この思いが、神に対する姿勢をいいかげんにしてしまうのだ。

イエスは立ち去られるかたであることを覚えなければならない。

God Bless You!!


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