2021年2月16日(火)
『こころの貧しい人たちは、さいわいである……。』マタイによる福音書5章3節
五、六、七の各章は、いわゆる山上の垂訓と言われているもので、イエスが伝道を始められたときに、これからもたらされる新しい掟を語られた言葉が記されている。
3節から言われていることは、私たちの普通の考え方とはおよそ逆説的なものである。
貧しい者が幸いであることは、この世ではありえないことであり、富んでいる者が幸いであって、貧之人は不幸なのである。
それがこの世の道理であろう。
悲しんでいる者よりも、喜んでいる者が幸いなのであり、強い者が地を継ぐのであって、弱い者や柔和な者はいつも放置される。
憐れみ深いようなことをしていたら人生の落後者になってしまうし、心の清いということも、いまでは通用しないものになってきた。
ところが、イエスが来られることによって、貧しい人が幸いになる世界がもたらされた。
なぜそうなるのか、それは私たちのレベルで考えてもわからないが、しかしイエスによってもたらされる新しい世界がどんなものであるかを聖書は記している。
「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う」とある。
かつて道徳、道理として言われていたことが、イエスによって、新しい掟として命を与えられる。
イエスは旧約の世界とご自身が来られて始まる新約の世界との違いを、このところではっきりと言われるのだ。
貧乏人がいつまでも不幸な生活をしなければならない世界にあって、幸いであるという光がもたらされた。
新しい世界とは、イエスという光が来ることによって知らされる、この世では理解できない世界である。
山上の垂訓は、イエスを除いては理解できないものなのだ。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」。
これは、イエスが心の貧しい人のところを選んで行かれるから、その人たちは幸いなのである。
イエスは、だれも相手にしてくれず、自分はだめだと絶望している人のところへ行って友達になってくださる。
どうしようもない罪人を、イエスは引き受けてくださる。
悲しんでいる人を捜し求めてその人のところへ行かれる。
だから、イエスに出会ってイエスからの慰めが与えられるのである。
不公平なようであるが、イエスは悲しんでいる人を求めていかれるのである。
義に飢え渇いている人、柔和な人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を作り出す人、義のために迫害されてきた人たちを求めておられるのである。
イエスが尋ねていかれるからこそ、彼らは幸いなのである。
幸いな者となろう。
God Bless You!!
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