2021年2月14日(日)
『主の道を備えよ…』マタイによる福音書3章3節
バプテスマのヨハネがどういう人物であったかについては、旧約聖書に預言された人として紹介されている。
ヨハネは、ヨルダンの荒野で悔い改めのバプテスマを授けていた。
ヨハネは「あなたがたは裁かれる。斧は、はや木の根もとにおかれている。
あなたがたは裁きの近いことを知りなさい」と責めたのである。
その言葉を、金持ちも、権力者も、教養ある者も、みな自分に言われたこととして聞き、ふるえ上がったのである。
現代においても自分のことを問われるのは、みないやがるものである。
だから一般論として話すようになる。
今の時代はだめだというような一般論だけを話し、あなたはどうかと言われることを私たちは好まない。
しかし、あなたはどうか、私がどうなのかということが問われなければならないのだ。
今日のキリスト教の大きな欠点は、あなたはどうなのかという神の問いをぼかしていることだと私は思う。
それでは、ほんとうの悔い改めは起きてこない。
ヨハネは人々に、自分がどれほど神の前に恐れなければならない存在であるかを語った。
さらに、自分の先祖がアブラハムであろうと何であろうと、そんなことは問題ではなく、いまあなたが神の前にどう生きているかが問題であると迫ったのである。
あなたはどうか、それを聖書はいつも問うている。
そのときに、自分の中にほんとうに裁かれなければならない多くの罪があることを見いだす。
それが悔い改めの第一歩である。
ヨハネは、その点で非常に厳しく語っている。
たとえば12節の言葉などである。
麦の殻と実がいっしょになっているが、選別されて役に立たないものは焼き捨てられてしまう時があると言うのだ。
これは旧約、特にマラキ書などに繰り返し語られている。
悪人がのさばり、善人が苦しんでいる世界はいつまでも続くものではなく、いつかこの世の終わりがあるということは動かすことのできない聖書のメッセージであり、神を信じるとは、そういう世界のあることを信じて生きていくことである。
自分がどのように罪深い者であり、神の御心を痛め、また神に反するようなことをしているかに気づき、イエス・キリストを自分の魂に迎えることがどんなに大事なことであるかを、聖書はヨハネを語ることにおいて示している。
きょうもう一度自分自身の悔い改めから信仰が始まっていかなければならない。
私たちは、自分が神に対してどのようにみじめな者であり、罪深い者であるかを知らねばならない。
それが、主の道を備え、その道筋をまっすぐにするということである。
God Bless You!!
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