2021年12月8日(水)の手紙

2021年12月8日(水)


『この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。』ヨハネの福音書19章28節


十字架上のキリストは、精神的な苦痛とともに肉体的にも十字架刑の激痛を受けておられました。
そこには当然、肉体的な激しい渇きがありました。

しかし、ヨハネの福音書の記者は「聖書のことばが成就するために」と書いていますが、これは詩篇69篇21節の「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」とのみことばの成就のためであると言っています。

そして、兵卒たちはこのことばを聞くとただちに、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した、と聖書は続けています。

「わたしは渇く」とは、第一に主の霊の渇き。
確かに主イエスの肉体的なご苦痛により、主イエスは激しい渇きを覚えておられました。
それは聖書の預言の成就ではありましたが、それらにまさって主イエス・キリストの深い内心の叫びでありました。

人類の罪を負われた主イエスは今や、火のような神のさばきのために、彼のお心は激しい霊の渇きを覚えられたのです。

第二に、主は人々の魂の救いのために。
この主の贖罪を信じて救われる魂の起きることこそ、主イエスのせつなる願いでありました。

ここに主の限りないご愛があるのです。
主は人々が罪を悔い改めて神に立ち返ることを、せつにせつに求めておられるのです。

第三に、主は今も魂を求めておられるのです。
「わたしは渇く」とは、二千年前の主イエス・キリストのみことばではないのです。
その叫びは、今日もなお、人類に語りかけられ、私たちに語りかけられているのです。

それは、あなたへの語りかけであり、私への語りかけです。
私たちは、この主の御心の渇きをおいやしするために、私たち自身を主におささげすべきではないでしょうか。

私たちは自分の魂の救いだけで満足してはなりません。
隣人の救いのために、家族のために、友人のために、周囲の人々のために、海外にある救いのために、私たちはさらに熱心に奉仕すべきではないでしょうか。

旧約において、イスラエルの王ダビデがあるときベツレヘムの水を求めたことがありました。
そのとき、三人の勇士は生命をかけてペリシテ人の陣営を突き抜けて水を汲んできて、王にささげたのです。

私たちも、真の王である主イエスの渇きをおいやしするために生命を惜しまず励むべきでしょう。

God Bless You!!


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