2021年12月1日(水)の手紙

2021年12月1日(水)


『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』ローマ人への手紙5章8節


神の無限、広大な愛は、イエス・キリストによって人類に啓示されましたが、そのご愛は驚くほどに深く、測り知ることができません。
しかし、イエス・キリストの十字架を仰ぐとき、そのご愛の一端を知り、そのご愛にふれることができます。

使徒パウロはローマ人にあてた手紙の中で、この神の愛が、どのような人々に向けられ、注がれるかを書いています。

第一に、私たちが、まだ弱かったときです。
私たちが、神に対しては不信仰であり、神に従うことのできない弱さをもっていたとき、すなわち、神に対して不敬虔であったときに、神は私たちに対して神ご自身の愛を啓示してくださいました。

神から離れている人間は弱い者です。
それはいたんだ葦のようであり、くすぶる燈心のようなものです。
他人の少しの中傷で心は傷つき、少しの失敗で挫折し、小さなつまずきで心を打ち砕かれてしまう者です。

しかし、この弱い者にも、神はイエス・キリストの十字架によって、愛の御手を伸べておられるのです。

第二に、私たちがまだ罪人であったときです。
神を離れ、神を忘れ、神に逆らったとき、人類は神の御前に罪人となりました。
すなわち不義な者、汚れた者となったのです。

私たちの罪はたとえどれほど小さなものであっても、罪は罪としてさばかれねばなりません。
しかしこの罪人を愛して、キリストは死んでくださいました。
神はキリストの十字架によって、私たちの罪を赦し、罪の力とその審判から解放してくださったのです。

第三に、私たちが、敵であったときです。
私たちが不敬虔になり、神に逆らい、罪を犯すとき、それは、神に対して敵となっているのです。
それは当然罰せられねばなりませんし、さばかれねばなりません。

しかし、イエス・キリストの十字架の死によって、私たちは神と和解することができます。
キリストの死は、神の御前に私たちの罪のなだめの供え物となっているのです。
私たちは、キリストの十字架の死によって、もはや神の敵ではなく、神の子となることさえできるのです。

使徒パウロは律法を遵守し、まじめなパリサイ人で、義人でした。
しかしそれは表面だけで、彼は自分の罪の深さを知っていました。

ローマ人への手紙7章24節の嘆きは、真に自己の罪、罪性の深さを知った者のことばです。
それゆえに、神がいかに罪人を愛しておられるかを知り、このように書いているのです。

私たちは今や、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ、どのように弱くとも、罪が深くても、神から遠く離れていても、恐れることなく神の愛を信じ、神に近づくべきです。

God Bless You!!


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