2021年11月30日(火)の手紙

2021年11月30日(火)


『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』ヨハネの手紙第一4章10節


使徒ヨハネは、神が御子イエス・キリストを私たちの罪のために、なだめの供え物とされたところに、神の愛がある、と言っています。
つまり、神の御子イエス・キリストが十字架につけられたところに、神の愛が現されているというのです。

イエス・キリストの十字架は、神の愛の現れのクライマックスであり、絶頂です。
私たちは、このキリストの十字架を仰ぎ、そこに啓示された神の愛をしっかりと心に受けとめるべきです。

神はこのキリストの十字架によって、私たちに次の三つの祝福を与えてくださいました。

第一に、私たちにいのちを得させてくださいました。
私たちが神を離れたとき、私たちの魂はいのちを失い、死んだものとなりました。
知性は曇り、愛情は乱れ、意志は弱くなりました。

しかし神はこのイエス・キリストによって、私たちに新しいいのちを与えて新しく生まれ変わらせ、永遠のいのちをもつ者としてくださいました。

第二に、私たちの罪のためのなだめの供え物を与えるためでした。
私たちは罪を犯したとき、神より離れ、滅びる者、失われた者となりました。

しかし、神はこのイエス・キリストの十字架によって、私たちの罪を赦し、神との和解の道を開いてくださいました。
キリストの十字架は、私たちの罪の贖いでした。
これなくして、私たちはまことの祝福を受けることはできないのです。

第三に、私たちが愛し合うためでした。
イエス・キリストによって贖われ、新生した者の当然の道は、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも隣人を愛するようになることです。

ヨハネは、「愛のない者に、神はわかりません」と言っていますが、神を知らず、愛のない冷酷な私たちも、今、イエス・キリストを知り、その十字架を仰ぐとき、神の愛に触れ、神の愛を知ることができるのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださっている。
それが主イエス・キリストの十字架です。
ここに愛があるのです。

使徒ヨハネは、主の弟子たちの中で、一番近く主の十字架のみもとにいました。
お顔とおからだを鞭で打たれ、しかも今十字架につけられている主の御姿を拝したとき、たぶん同胞のユダヤ人たちの残酷さに心は怒りに燃えたと思われます。

しかしペンテコステの日に聖霊が降った時、彼の心の目のうろこは取れて、霊の目が開け、そこに神の愛、主の愛が明らかにされたのです。

主の十字架のご愛は、私たちも聖霊により心の目が開かれる時に、今さらのように鮮明にされるのです。
「私のため」と信じられるのです。

God Bless You!!


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