2021年11月26日(金)の手紙

2021年11月26日(金)


『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』ピリピ人への手紙4章6節〜7節


どうして思い煩いに心を蝕まれるがままにしておくのですか。
思い煩いによって、自分でなんとかする力が削がれ、とりわけ神をほめたたえる力が削がれます。

心が思い煩いでいっぱいになっていると、物事をはっきりと見きわめることができません。
ちょうど望遠鏡を手にして、心配という熱い息を吹きかけてからのぞき込み、曇りしか見えないと言っているようなものです。

見えなくて当然ですし、息を吹きかけているかぎり、これからも決して見えません。

もし落ち着いて、冷静、沈着であれば、正しい行動をすることでしょう。
困難のときには「気を確かに持つ」べきです。
神の臨在を覚える人は、冷静さを保つことができます。

もし祈りを忘れるなら、私たちはみな思い煩い、心に思いつく最初のこと(それはたいてい最悪のことですが)をしてしまうのではないでしょうか。

なすべきことがわかるまで待ってから、信頼と信仰をもって神の御前で事を行うことを、しないのではないでしょうか。

思い煩いは有害です。

多くの場合、たしかに私たちの思い煩いは、多岐にわたっていると思います。
私自身の場合で言えば、いったん心配、不安、焦操にかられると、たとえ自分の髪の毛を数えることはできても、思い煩いを数えることは決してできなくなります。

思い煩いでいっぱいになっていると、思い煩いはさらに増加するものです。
自分で限界と思うほどまで思い煩っていると、さらなる心配の種は必ずや、自分の周囲に増え広がっていきます。

この心配癖に甘んじていると、思い煩うあまりに、こんな人生は生きる価値がないと思うほどまで、思い煩いに人生を支配されていきます。

思い煩いや心配は多岐にわたるものです。
それゆえ、祈りも多岐にわたるものにしましょう。
心配事のことごとくを祈りに変えましょう。
あなたの抱えている心配を、祈りの材料にするのです。

錬金術師が不純物を黄金に変えようとしたように、あなたには実際のところ、本来は思い煩いであったはずのものを、祈りという形の霊的な宝に変える力があります。

思い煩いのことごとくを、父、子、聖霊の御名によってきよめ、祝福に変えなさい。

父なる神よ、
私は思い煩いと心配ではちきれそうです。
それらを今、あなたの全能の御手にゆだねます。

アーメン


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