2021年11月18日(木)の手紙

2021年11月18日(木)


『香のいっぱいはいった金の鉢……この香は聖徒たちの祈りである。』ヨハネの黙示録5章8節


主に受け入れられる祈りとは、プロ歌手の賛美や、聖職者たちの連禱や、オルガンの敬虔な響きなどでなく、聖徒たちの祈りであるはずです。

信仰者の人生、人格、たましいのうちに、神に喜ばれる香りがあるのです。
聖徒の祈りでなければ、受け入れられることはありません。

それでは聖徒とは誰でしょう。
主の御霊の力によって聖とされた人々です。

ほかでもない主が、その人々の性質を聖化し、イエスの尊い血によって洗いきよめ、御霊で満たし、ご自身を礼拝させるべく聖別なさったのです。

聖徒たちは主を愛し、ほめたたえ、おごそかにおそれかしこんで御前にぬかずき、主を敬慕しつつ心から祈りをささげます。
聖徒たちの思い、願い、望み、告日、嘆願、賛美は、神に喜ばれるものです。

これは神のお耳には妙なる調べ、神のお心には芳しい香り、神のかぎりないみむねには喜び、神のきよい御霊には快いものです。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければならない」からです。
ほかのどの方法によっても、霊である神を礼拝することはできません。

祈りにおいて神に喜ばれるとは、ことばづかいの問題ではありません。
ただし、ふさわしいことばである必要はありますが。

むしろ喜ばれる要素は、外面的な認識でわかるものに存在しているのでなく、芳しい香のエキスやアロマに匹敵する目に見えない性質に存在しています。

香には微量かつほとんど霊的なエキスが含まれ、そのエキスは燃えさかる炭によって隠れた芳しさを四方八方に拡散させ、その力をいたるところに表明します。

祈りにおいても同様です。
私たちの祈りは、うわべは非常に麗しく、まさにディボーションの手本のように見えるかもしれませんが、目に見えない霊的な力が内在していないなら、その祈りは無益です。

信仰こそ、祈りという芳香に欠かせない本質的要素です。

誰かが祈っているとき、その人が信仰によって祈っているか否か、私は判断できません。
しかし神はその祈りに信仰があることを、あるいはないことをお認めになり、その場合に応じて祈りを受け入れたり、あるいは拒んだりされるのです。

父なる神よ、
あなたは私のたましいの奥底をご存じです。
どうか私の祈りがあなたに喜ばれるものとなりますように。

アーメン


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