2021年10月9日(土)
『あなたは初めの愛から離れてしまった。』ヨハネの黙示録2章4節
第2章には、七つの教会のそれぞれに書き送られた言葉が記されている。
まずエペソにある教会が最初に出てくる。
「わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている」。
イエス・キリストはエペソの教会の人たちが毎日なめている労苦や忍耐やその業を知っておられる。
知っていてくれる人がいるということほど、私たちの慰めになることはない。
あなたのことはわかっていると言ってくれたら、肩の荷が半分ぐらい下りたような気がするものだ。
カウンセリングは、人の悩みを聞き、解決へと導く仕事であるが、その大事な心得は、説教しないということである。
絶対と言っていいほど、意見を述べてはいけない。
ただ聞くだけ。
しかし私たちは、聞いてもらうだけで気持ちが落ち着いてくるのではないだろうか。
ステパノが石で打ち殺されたとき、「どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と言って眠りについたと書いてある。
こんなことは人間業ではできることではない。
だれでも死んでいくときは苦しい様相をしがちであるが、彼は眠るようにスーッと死んでいった。
自分に押し迫ってくる群衆を見ていたら、そんな心は起きてこなかっただろう。
彼は天を見ると、神の右に座しておられるイエスが見えたので、平安を得た。
だから私たちは、何かあったときには天を見ることが必要なのだ。
天を見るとは、イエスが私たちの労苦を知っていてくださるということである。
私たちが受ける悲しみをイエスは知っていてくださるということは、私たちにとって大きな慰めである。
「しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛から離れてしまった」。
これにはふたつの意味があると思う。
ひとつはイエスを知り、はじめて教会へ行き、信じて洗礼を受けたころの初々しさを忘れて、教会の主のようになってしまうこと。
もうひとつは、私たちが愛するとか、愛されるとかいう元の愛、すなわちイエスの愛、イエスによって示された神の愛から離れてしまうことである。
私たちの信仰は、イエス・キリストにある神の愛に根ざしているだろうか。
信仰生活をしていくうちに、キリストがぼやけてきて、人間の交わりが強くなってくる面が多いのではないだろうか。
はじめの愛からずれてくることが教会の世俗化である。
そうなってくると、「わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう」ということになる。
それでは命のない教会、光のない教会になってしまう。
大事なことは、私たちの教会が命の燭台を持っているかどうかということである。
そのためには、はじめの愛にしっかりと立っていかなければならない。
God Bless You!!
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