2021年10月5日(火)の手紙

2021年10月5日(火)


『わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。』ヨハネの手紙第二1章5節


「あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである」。

初代教会のできたはじめのころは、教会の数もあまり多くなく、孤独感というものがそれぞれの教会にあっただろうと想像される。

しかしお互いに真理を知っている者、つまりイエス・キリストを知っている者は、あなたがたの教会をも覚えて祈っていると言うのである。
そういうふうにお互いに愛し合っている、あるいは心の中に覚え合っていることを知るのは、非常に心強いことである。

私たちもアシュラムに出席した人たちに、早天祈祷会でその人の誕生日に祈って、ハガキに寄せ書きを書いて送っている。
いつもしていることだから、別に大きいことをしたとも思わないが、いろいろな人から返信をもらったり、出会ったりすると、そのことがどれだけその人たちを勇気づけているかを知らされる。

アシュラムに出席して、そのときには毎日聖書を読もう、お祈りを毎日しよう、そういう思いを持って家に帰るのだが、しばらくすると忙しさやいろいろなことのために、だんだんとそれがおろそかになってくる。

そういうときに今治教会の早天祈祷会から、あなたのためにけさ祈りましたというハガキをもらうと、それは神から来たハガキのごとくうれしく、勇気づけられるのだ。

ある人はそれを額に入れて大事に飾っているという。

ある学者が、イエスの言われた教えを全部調べたら、それはみな旧約聖書にあると言っている。
言うならば、イエスの教えには新しいものは一つもないということである。

旧約聖書にあるということは、ユダヤ教と同じということであり、イスラム教とも変わりがないということになる。
教えということだけならば、キリスト教も仏教もそれほど変わらないと思う。

しかし、初代教会においては、他と一つだけ違っていたことがあった。
それは互いに愛し合っていたことである。

初代教会にはいまのように聖書はなかった。
だからこそ、他の宗教と異なるものは、互いに愛し合うということであった。

イエスが弟子たちの足を洗われることにおいて、あるいはイエスが十字架について死なれたというような具体的な業において、神から愛されていることを知ったなら、私たちも人々を愛していかざるをえなくなる。

イエス・キリストにおける神の愛を私たちは知った。
知ったということは、そこから何か新しいものが生まれてこなければおかしい。
それをあらわしていかざるをえなくなる。
そこに深い交わり、愛の交わりが生まれてくる。

「互に愛し合おうではないか」。

そういうことにおいて、キリスト教を私たちは人に示していくことができると言うのである。
キリスト教はむずかしいことではない。
大事なのは互いに愛し合うことなのである。

God Bless You!!


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