2021年10月24日(日)
『昔はいたが、今はおらず……。』ヨハネの黙示録17章8節
6節から10節までは、大淫婦と獣の幻の意味が書かれている。
8節に「昔はいたが、今はおらず」と書いてあるが、これは語呂合わせのようなものである。
ヨハネの黙示録は、神のことを「昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」と言っている。
私たちは、「昔いまし、今いまし、やがてきたるべき」かたを恐れなければならない。
昔はいたが、いまはいないようなものは、なにも恐ろしいことはない。
過去の幻影などにおびえる必要はない。
ところが私たちは案外、昔はいたが、いまはいないものを恐れる。
いまいないということは、いま私が生きるための活力にはならないものという意味合いがある。
そういうものを恐れる必要はないのだ。
しかし、いまも後も昔もともに、生きる者の活力となるものは、それを恐れるというか、求めていかなければならないのである。
イエスが処女マリヤから聖霊によって生まれたということも、そんなばかなことがあるかと言ってみたり、いや神だから一度ぐらいはそんなこともあっただろうなどと言ったりするが、それは「昔はいたが、今はおらず」という考え方である。
原因はなくても、神は聖霊をもって御心にかなうことを成就してくださる。
処女降誕を信じるとき、たとえ自分のうちに誇るべきものがなく、頼るべきものがなくても、御霊が私に臨んで、私の中から神の約束を成就してくださるのである。
なんとすばらしいことか。
何もないマリヤから神の約束であるイエスが誕生したということは、私たちすべての者に望みを与えるものなのである。
私たちはいつも原因というものから自由にされない。
原因にとらわれている。
まかぬ種は生えぬというような世界のおきてに、がんじがらめにされている。
福音とは、そのがんじがらめにされている鉄鎖から私たちを解き放つものである。
だから「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き、さふらんのように……」という預言が生まれてくるのだ。
何もないところからさふらんの花を咲かせてくださる神をいま信じないなら、昔はいたがいまはおられない神をどんなに信じても、それは懐古趣味にしかすぎない。
なんとキリスト信者の中には懐古趣味の者が多いことか。
神に頼っているだけでは不安だから、他のものにも頼ろうとする。
それでは聖書を信じていることにならない。
イエスが「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われたとき、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と言った。
生ける神の子とは、「今います」ということである。
それが信仰であることをよくよく覚えたいと思う。
God Bless You!!
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