2021年10月23日(土)の手紙

2021年10月23日(土)


『さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ。』ヨハネの黙示録16章1節


第16章では、いよいよ最後の番判の時がやってくる。

災害は天から来るもの、また思いがけないところから起きてくるものであって、人間が類推してわかるようなものではない。
私たちの世界は一の次は二になり、次は三というふうに、だんだん良くなるか、あるいはまた、だんだん悪くなってくるものであるが、信仰の世界は平面の世界とは違う。

平面の世界は、私たちが朝早く起きて一生懸命努力すればこうなるというような世界だが、信仰の世界は天から神が御心を注がれるのだから立体の世界である。

しかし、私たちは平面の世界に住んでいるので立体の世界のことはわからない。
だからその世界を否定してしまいやすい。
そこに時々思いがけず立体の世界があらわれてくると、私たちはまったく理解できなくなる。

そういう意味で、聖書は宜言の書である。
それは受け止めていくよりほかにしかたがないというこことである。

平面の世界の論理で埋解できることではない。
審判とか災害とかいうことも、突然天からあらわれてくるというような性質のものであり、いま私たちが見たり、知りうる範囲が無事だからといって、それで大丈夫というものではないのだ。

私たちの生活の面から考えても、たとえば家族の健康に努力し、経済生活の計画を立てて備えていけば、ある程度までは思うとおりになっていくかもしれない。

しかし何か思いがけないことが起こると、すべてがめちゃくちゃになってしまうことがある。
そういうことが世の終わりとか審判とかいうものだと私は思う。

それは自分の家の問題としては受け止めにくいものであり、それを主の裁きと信じ、恐れ、備えていくことはむずかしい。
しかし聖書は宣言の書であるから、神は愛であると言われたら、神は愛であることを信じ、また神が世を裁かれると言われたらそれを信じるのである。

神が愛であることは信じるが、世の終わりは信じないというのでは、ちょっと勝手すぎる。
あくまで聖書に書かれてあることを信じなければならないのである。

「あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。

エレミヤが預言者として選ばれたときに、あめんどうの枝を見ますと神に答えた。
この木は目覚めの木という意味があるそうである。

冬枯れの中でポツンと花が咲く。
枯れているのではなくて、神は生きておられることを、あめんどうを見ることにおいてエレミヤは示された。

ニーチェは、神々は死んだと言ったが、その死んでいるように思える中で神が生きておられるのを見ていくところに、預言者の務めがある。

聖徒たちはいまは苦しめられているが、そのこともまた神の前には数えられているということが、大きな励ましであり、慰めなのである。

God Bless You!!


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