2021年10月21日(木)の手紙

2021年10月21日(木)


『新しい歌を歌った。』ヨハネの黙示録14章3節


「彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った」。

新しい歌とは、新曲という意味ではない。
それは私たちが生まれ変わり、新しい世界に立たなければ歌うことのできない歌ということである。

ほんとうの人生は棺桶から見なければならないと言われる。
いつまでも生きていると思っている人は、ほんとうの人生観を持つことはできない。

しかし信仰のある者は、ただ棺桶からだけ見た人生観であってはならない。
キリスト者の人生観は、神の立場から自分というものを見ていかなければならない。

パウロはそのことを、「キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」と書いている。

人が何と言おうと、自分がどんなに貧しい者であろうと、そういう自分をキリストがいかに愛してくださるか、そのキリストのうちに自分を見いだす。
そこにキリスト信者の新しい喜び、新しい歌声が生まれるのだ。

私たちは、自分が神を愛しているというふうに思っている。
自分がキリスト教信仰をし、自分が教会へ行っているというふうに考える。
しかし私たちの信仰生活は、キリストが選んでくださったというところから始まらなければならない。

神が私のために一人子を十字架につけてまで、私を贖ってくださったというその大きな愛に気づいたとき、信仰のことは二番目にしておいて、この世のつきあいのほうが大事だという考えが起きてくるはずがない。
そんな考えが起きてくるのは、キリストのうちに自分を見いだしていないからなのだ。

神のほうから自分を見ていく。
そのときにはじめて新しい歌が私たちの口にのぼってくるのだ。

「この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった」。
イエス・キリストの十字架の贖いをほんとうに知った者でなければ、新しい歌は歌えない。

私たちが感動し、信仰生活をしていく原動力とは何か。
それはイエス・キリストがこんな私のために十字架について死んでくださった、そして私のような者が神の前に義とされたということである。

それを喜び、そこに立ちどころを見いださなかったら、私たちの信仰は邪宗である。
私たちはそのような信仰に座していないかどうか、自己吟味しなければならない。

新しい歌は十字架の贖いを経験した者だけが歌えるものである。
あの人も歌っているから私も歌うというような、心のこもらないものは神の前に通じない。

賛美歌にしても、私たちの心が冷えているときは、それがよそよそしく感じられ、乗っていけない。
しかし、賛美歌の作者と同じような喜びに満ちていれば、その歌詞が私の中に迫ってきて、心から歌うことができるのである。

God Bless You!!


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