2021年10月20日(水)の手紙

2021年10月20日(水)


『ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。』ヨハネの黙示録13章10節


第13章は二つの獣のことが書かれている。

いままでは非常に神秘的な表現で黙示が書かれていたが、この章では、しだいに具体的なものに根ざした内容になっている。

1節のところの獣は、ローマの皇帝をさしている。
皇帝の持つ権力、権威というものがどんなに大きなものであるかを示している。

私たちはともすると、水と油のように、信仰生活と具体的な生活とが分離しやすい。
信仰のことではひどく威勢のよいことを言うが、実際の生活となるとまったくだらしがない。

それは私たちが、神の権威や栄光について十分知りながらも、この世への神の力の介入を過小評価してしまうからである。

「龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた」とある。
この龍というのは悪魔であって、悪魔は自分の権力などを全部この獣すなわち皇帝に与えたというのである。

「そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み……」だす。
これは皇帝崇拝が行われるようになったことを示している。

ルカによる福音書2章に出てくる皇帝の「アウグスト」とは尊い者という意味であり、皇帝が神であり絶対者であるということになったわけである。
この恐ろしい時代がやってきたときに、命の書に書かれていない者は皇帝を拝むような者に落ちていく。

しかしここで、「耳のある者は、聞くがよい」と言われる。
神の支配は狂わすことができず、とりこになるべき者はとりこになり、剣で殺す者はみずからも剣で殺されなければならない。

そのように神の秩序は、人間の力をもって狂わすことはできない、と言うのだ。

神は必ず、この世へと介入してくださる。
たとえどんなに悪の力がはびこっても、神の秩序を変えることはできない。
そのことを信じて生きていくところに信仰者の忍耐と信仰がある。

信仰は、いまだけを見たのではだめである。
信仰は約束を信じていくことであると私はよく言うが、そこに信仰のむずかしさがある。
いま何か特別なことが起きるのを信仰だと思うのは大きなまちがいである。

神を信じて祈るときに、病気のなおる人もいるだろうし、なおらない人もいるだろう。
しかし信仰とは、そのことに一喜一憂することではない。
問題は神の秩序である。

私たちのいる現実に介入される神がおられるのだ。
その秩序を尊び、その前にひれ伏していくところに私たちの信仰がある。

God Bless You!!


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