2021年10月2日(土)
『わたしたちは、すてに神の子なのである。』ヨハネの手紙第一3章1節
私たちは自分が神の子とされているということを、観念的には知っているが、事実そうなっていることをほんとうには知らないのではないか。
何の苦労もせずに親の財産を受け継ぎ、急に財産家になったりすると、そのことが実感となってこない。
そこにはほんとうの感謝とか、財産に対する執着心とかいうものはなくなってくる。
私たちがイエス・キリストによって神の子とされたという信仰もそうなりやすいのではないか。
私たちは手でふれたり、目で見たりするようなことから現実を見やすい。
しかし信仰とは、イエス・キリストから現実を見ていくことである。
主の御使いがザカリヤにあらわれて、「あなたの妻エリサベツは男の子を産む」と言ったとき、ザカリヤは、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。
わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と言った。
これはまさに人間の現実から物を見ていたわけである。
自分は罪をゆるされたといっても何もうれしいことはないではないか、神の子とされても何か得することがあるのか、やはり毎日毎日食べることに汲々としていなければならないではないか、というように現実から物を見れば、現実に対する失望だけが残る。
これに対して信仰は、神の言葉から現実を見る。
自分は神の子とされているのだからというふうに見ていくのである。
金がたまったからうれしいとか、こちら側から見ていくのではなくて、上から現実を見ていくのが信仰の要点である。
どうしてこんなことになるのだろうかと現実から考えるのではなく、神の子とされたということから現実を見るのが信仰生活である。
この逆転の立場に立っての人生観、世界観を持つのがクリスチャンの生き方である。
これをしっかり身につけてほしい。
そうすれば信仰は両刃の剣のようなもので、どんなむずかしい問題がやってきても、どんな悩みの中にあっても、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」と、すべてのことをえり分けていくことができる。
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。
それによって、わたしたちは愛ということを知った。
それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」も同じことである。
イエスの愛、イエスによって私たちがどのようにされたかということが、私たちの生活の基準となり、原動力となり、震源地になることである。
イエス・キリストが私のために十字架について死んでくださったというその振動の上に乗ってはじめて、言葉や舌だけでなくて、行いとまこととを持って愛することができる。
そして、自分を誇るのではなく主を誇れとパウロが言っているような生活に生きることができるのである。
God Bless You!!
a:40 t:1 y:0