2021年10月15日(金)の手紙

2021年10月15日(金)


『これは、すべての聖徒の祈に加えて……。』ヨハネの黙示録8章3節


「また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。
たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった」。

別の御使いとは、祈りを神に携えていく祈りの御使いであろうと言われている。
仲保の御使い、平和の御使いというふうにも言われていたようである。

私たちは祈りについて案外安易な考えを持っているように思う。

旧約聖書においては、祭司が神の前に立つときにはいろいろな制約があった。
自分自身をととのえることなしに神の前に立ち、祈りをささげることはできないという、神に対する恐れからくる備えがあった。

むろん、たとえ精進潔斎し、いっさいの雑念を捨てて準備をしたところで、そういう人間の準備というものは決して神の前に清いものとはならない。
イエス・キリストの血潮によってはじめて私たちは清くされるのであって、自分の力で清くなることはできない。

あるいは、とりなしの祈りについても、そのとりなしはイエス・キリストにおいてなされており、それ以上に、私たちはいろいろなものを必要としない。

天国の聖所の幕が破れて、聖所と至聖所の間の隔ての中垣はなくなった。
私たちはそのままで神の前に出てぬかずくことができるようにされた。
だれかに祈ってもらわなくても神の前に出られる者にされたことは大きな恵みである。

しかし、それがいつの間にかあたりまえになってしまい、イエス・キリストのゆえにそうされていることを忘れてしまう。

イエス・キリストによらなければ、祈りはできないという自分の小ささを忘れてはならない。
自分の弱さ、自分が小さい者であることを徹底的に知ることによって、恩寵というものがわかり、その恩寵のゆえに祈ることができるのだ。

おおぜいの人の中から選ばれて、神の経論の中に私のような者が用いられているということをほんとうに感じたとき、私たちは緊張し、恐れなければならないのではないか。

ともすると、そういう緊張感がなくなって神を見失っているのではないだろうか。
それでは教会に来ても、神を礼拝していない、単なる人の集まりになってしまう。
神を礼拝するのであれば、そこで神に出会わなければならない。

ほんとうに神の前に礼拝がなされるためには、私たち自身の身構えが大事である。
そういう点で、ふさわしい装いで出かけるということも必要であろう。

祈りというものは、祈りの天使によってはじめて神の前に携えていかれるものであって、私たちの祈りがそのまま神に聞かれるほど、私たちは大きい存在ではない。
神の憐れみによって聞いていただけるという恐れを、祈りの中にも忘れてはならないのである。

God Bless You!!


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