2021年10月11日(月)の手紙

2021年10月11日(月)


『見よ、開いた門が天にあった。』ヨハネの黙示録4章1節


黙示録は、迫害に悩み苦しんでいる者たちに送られたものである。

考えてみると、迫害は受動的なものではない。
キリスト教信仰をしているから受けるというものではない。
迫害は自分が選び取っていくものである。

だから能動的なものである。

イエスはみずから進んで十字架を選び取っていかれた。
クリスチャンの殉教や苦しみは、選び取っていく苦しみであるところに、その重みがあるのだ。

ところが私たちは、それを選び取るチャンスを失いやすい。
人はだれでも易きにつきやすいものだ。
しかし、神の御言葉に従っていくというイエスの道は決して安易な道ではない。

「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。

しかし、あなたがたはこの世のものではない。
かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。
だから、この世はあなたがたを憎むのである」。

苦しみの中で、はじめて私たちの信仰は、聞いた信仰でなく、見た信仰となる。
閉ざされた世界における信仰ではなく、開かれた門から入ってそのところにおられる神を見ることができるようになる。

それを見た者が語っていくところに、私たちの証しがあり、説教があるのだ。

ある牧師さんから手紙をもらい、どんな準備をしたら、どんな本を読んだら先生のような説教ができるのか、と尋ねられて困った。
そこで聖書を読んでいますと返事をした。

もちろん、ほかの本も読まなければならないが、それは聖書を読むため、理解するためであって、そういうものを読んだからといって説教はできない。

大事なのは聖書を読むことである。

しかもただそらんじるのではなく、書かれていることに、アーメン、ほんとうにそうだと心から賛同できる読み方をしていかなければ、聖書ほどつまらない本はないだろう。

聖書を読んで、ほんとうにアーメンと言えるようになるためには、聖書を書いた人と同じような生き方をしなくてはならない。
黙示録が迫害の中にある人たちに書き送られたものであるなら、私たちも迫害を受けるほど、信仰生活に徹していかなければならない。

黙示録が信仰の糧となるためには、私たちがやはり殉教者の道、言葉を換えれば、「日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」との御言葉に従う道を歩んでいかなければ、この書を理解することも、そのメッセージを聞き取ることもできない。

黙示録が私たちにとってどんなに慰めの言葉であり、励ましの言葉であるかは、私たち自身の生き方によるのではないだろうか。

God Bless You!!


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