2021年10月1日(金)
『あなたがたが罪を犯さないいようになるためである。』ヨハネの手紙第一2章1節
罪のゆるしということは、私たちが罪を犯してもよいということではない。
「恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
断じてそうではない」。
どんな罪でもイエスの十字架によってゆるされるということを聞くと、へ理屈を言って、それではもう別によいことをしなくてもいいではないか、イエス様、頼みます、きょうもやってしまいました、また頼みます、というような信仰でもよいではないかという考え方になる。
しかし、イエスは私たちが罪を犯すために十字架につかれたのではない。
罪がゆるされて清くなるために十架につかれたのである。
ただ私たちの罪がゆるされるだけではなく、罪がゆるされて本来の人間、すなわち清められた人間として生きていくために、イエスは十字架につけられたのである。
その十字架の目的を私たちが忘れてしまうと、前述のへ理屈が成り立つことになってしまう。
そして、多く恵みを受けるためには多く罪を犯したほうがいいということにもなってしまうのだ。
確かに十円の借金をゆるしてもらってもそれほど喜んだり感謝したりはしないが、百億円の借金をゆるしてもらえたら、これは一生涯忘れることはないだろう。
だからといって神の愛がわかるために、力いっぱい悪いことをしておいたほうがよいというのは、まちがっている。
「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。
彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。
ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」。
キリスト教においては、全世界の罪のためであるということが説かれることは少なかった。
私の罪のためであるということは、私たちはたびたび聞いているが、イエスの十字架は全世界の罪のためであるということはあまり強調されていなかった。
それはまちがいである。
「全世界の」と言うと非常に抽象的だが、もっと具体的に知るためには、私たちが憎んでいる人のためにと言えばいちばんよくわかると思う。
私たちが憎んでも余りあるような人もイエスの十字架によってゆるされているということになれば、神がゆるしておられるその人を私たちは責めることはできなくなる。
人が憎く思えたときにはひと呼吸置いて、私の罪をゆるしてくださった十字架はまた、「全世界の罪のためである」ということを覚えたい。
God Bless You!!
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