2020年9月20日(日)
『しかし、必要なことは一つだけです。』ルカの福音書10章42節
この世の旅を続けておられたある日、私たちの主イエスがある村に入ると、マルタという姉妹がイエスを家に迎え入れた。
この姉妹は主を慕っていたので、主を喜ばせるために物事を行いたかった。
そこであれをしたりこれをしたり、主のための備えをした。
この仕事に急き立てられて心が落ち着かず、心配し、いらだちさえ感じてきた。
誰でも自分の中でうまくいかないことがあると他人を責めはじめるものだが、マル夕も同じだった。
それで主のところへ行って文句を言った。
「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。
私の手伝いをするように、おっしゃってください」。
主は答えた。
「マルタ、マルタ。
あなたは、いろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
しかし、必要なことは一つだけです。
マリアはその良いほうを選びました。
それが彼女から取り上げられることはありません」。
ああ、主は、必要なことは一つだけだと断言した!
マルタはたくさんのことをしたが、主は必要なことは一つだけで多くはない、と言われたのである。
あなたはあのことをしよう、このことをしようと計画している。
あたかもたくさんの計画がなされ、たくさんのことを行わなければならないかのように、あれをしたり、これをしたりしている。
だが必要なことはただ一つだ。
そんなに多くのことではない、たった一つのことなのである!
ただ一つの必要なこととは何か。
マリアが自ら選んだキリストご自身にほかならない。
このただ一つの必要なことを、どうやったら手に入れることができるのだろうか。
主の足元に静かに座ることによって。
まさにこれこそ、マリアが行ったことだった。
私たちクリスチャン一人ひとりには行わなければならないことがある。
聖書は、「働きたくない者は食べるな」とさえ言っている。
私たちは働くべきであり、しかも勤勉でなければならない。
それでも、働いている間に自分の内にまったく安息がないことがしばしばある。
まるで主を忘れてしまっているかのように。
朝から晩まで忙しすぎて、きちんと祈ったり、神のみことばを学んだりしていない。
私たちの労働の動機や、多くの霊的な働き、この兄弟やあの姉妹への手助けが主のためのものであることは疑いがない。
それでもなぜか、こうした活動が内面の問題を生じ、その後に精神的な障害を引き起こす。
間題は、なすべき務めがたくさんあって主のことを忘れがちになるという事実にある。
それだから主のおっしゃることに耳を傾けよう。
「しかし、必要なことは一つだけです」。
これは主の内に憩うことであり、それを行えば我々の存在は主によって満たされることになる。
ウォッチマン・ニー
「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」ヨハネの福音書11章5節
まさにこの章でマルタは、失態以外何事も行っておらず、主のご人格の栄光を見ていないことは明らかだ。
それでもこの章には、イエスがマルタを愛しておられたということが前置きとして書かれている。
私はこの記述の内容をわずかに見ただけで深く感動した。
それによって、主の愛は私たちのあらゆる失敗を超えて上にあること、それゆえに私たちはいかなるときもその愛を頼みとし、そこに憩えることを教えられたのである。
エドワード・デネット
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