2020年9月18日(金)の手紙

2020年9月18日(金)


『あなたがたも…約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。』エペソ人への手紙1章13節~14節


約束の聖霊は御国を受け継ぐことの保証である。
このことが意味しているのは、これから来ることの前触れ、始まり、しるしである。

これは旧約聖書から例を引いて説明できるだろう。
カナンの地を偵察しに行った人々がモーセのもとに報告に戻ってきたとき、エシュコルの谷からぶどうを持ち帰ったことを思い出してみよう。

そのぶどうは、カナンの地に入るとき民を待っているものの保証だった。
彼らのために、そこにあるもののしるしであり、見本だった。

同様に神の御霊は、私たちを待っているものの保証であり、しるしであり、前触れである。

私たちがどれほど豊かに神の御霊を経験していたとしても(そしてこの点では、神の御霊の経験はきわめて豊かなものになりうる)、もっとも豊かな経験であっても、前触れにすぎない。

これが始まりにすぎないなら、完全になったらどうなるのだろうか、と驚くことになる。

聖霊は「御国を受け継ぐことの保証」であり、御国を受け継ぐという資産は、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない」もので、地にあってそのために「守られて」いる私たちのために「天に蓄えられて」いるとパウロが言っている。

これは、最上のものは常にこれからやってくるということを信仰者に告げるもう一つの言い方にすぎない。
人が全盛期を過ぎているときというのは悲しいものだが、キリストを信じる私たちにとっては決してそうではない。

感謝をもって思い出す日々がどれほどすばらしいものであっても、最上の日々はまだ来ていないのだ。

聖霊が私たち一人ひとりの内で、その人のために、その人を通して行ってきたことはすべて、偉大で完全な来世において私たちを待っているものの始まり、しるし、前触れ、見本なのである。

W・グラハム・スクロギー


恵みとはひとえに始められた栄光であり、栄光とはひとえに完成された恵みである。

ジョナサン・エドワーズ


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