2020年9月14日(月)の手紙

2020年9月14日(月)


『ただ、私たちが貧しい人たちのことを心に留めるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めてきました。』ガラテヤ人への手紙2章10節


キリストは貧しい者のほうを好まれたが、回心してからは私もそうである。

上流社会のほうを好む人々には、そうさせておけばいい。
私がそこに足を踏み入れようものなら(ロンドンでそういう目にあったことがある)、悲しく不幸な気持ちで戻ってくることになる。

私は貧しい人々のところに行き、金持ちと同じ悪しき本質を見出すが、そこには次のような違いがある。
金持ちと、己の安寧と己の交友関係を維持する人々は、自分自身をささげずにどれだけキリストを選び取り守っていけるかを計り、判断する。

これに対して貧しい者は、悲しみのとき自らを慰めるために、どれだけキリストをもつことができるかを計り、判断する。

私は貧しい人々を愛し、彼らに不信の念をいだかず、非常に多くの時間を彼らの中で過ごしている。
それも喜々として。

最初にそうした生活を始めたときは、自然な感情として、教育ある人々との交流に幾らか満足を感じていた。
それは自然なことだった。

もしある人が、考え方においても生活習慣においても霊的な判断をし、キリストに満たされているなら、私は最高の地位あるいは最高の学歴をもつ人よりも、その人のほうを選びたい。

そのほかの人は私にとってすべて同じだ。

最高の地位や学歴をもつ人は、上流社会の中でうまくやっていくために、自分を出さずに覆い隠す傾向がある。
自分のまわりに囲いをほしがるのだ。

一般に私は、善悪について他の人々よりも貧しい人々の判断を取りたい。

ただ彼らは、大勢一緒にまとめられていることとその品性からいって、互いの行動についてはいささか厳しく、好意を与えられた人に嫉妬したりしがちだが、たいていは相手に対してたいそう親切で思いやりをもっているからである。

ジョン・ダービー


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