2020年9月11日(金)
『主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』ペテロの手紙第二3章9節
予言を行う異教の教団を調べて、教会の位置や召命、希望を見つけようとしても無駄である。
それはそこにはない。
まるで自分に何らかの関わりがあるかのように、日付や歴史的出来事にとらわれることは、クリスチャンにとってまったくの見当違いだ。
確かに、神がイスラエルの民をどのように扱われたか、この地をどのように扱われたかと関連させるならば、これらのことにはすべてふさわしい位置と価値と利点がある。
だがクリスチャンが決して見失ってはならない事実は、自分が天に属する者であり、地に拒まれて天に迎えられたキリストと分かちがたく結びついていること。
自分のいのちは、キリストとともに神のうちに隠されていること、日々刻々、主が来られることに注意していられるのは聖なる特権であることである。
その至福の希望に気づくことをどんなときにも妨げるものは皆無だが、遅れをもたらしているものは一つだけある。
それは、だれ一人滅びることも望まず、むしろ、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる主の忍耐のためなのだ。
これは、罪深い失われたこの世への貴重なことばである!
救いが啓示される準備は整い、神のさばきの備えはできている。
もはや待つべきことは、選ばれた最後の一人が集められること以外にない。
そして、
ああ、そう思えることのなんと幸いなことよ!
私たちの愛する大切な救い主が来て、私たちをご自身のもとに迎え入れ、主のおられるところに共にいて、永遠にどこにも行かなくてもいいようにしてくださるのである。
C・H・マッッキントッシュ
私たちの心は、神の御子が天から来られるのを本当に待っているだろうか。
私が言いたいのは、私たちの思いの中で大切にされている預言を理解するということではなく、明けの明星、すなわち私たちのためにいのちを与えた天上のキリストは、私たちに属するものである、ということだ。
だから、私たちが永遠にキリストとともにいて、かつキリストのようになることを願うとき、このことは、この世を生き抜いていく際に私たちを励ましてくれる。
それにともなう美徳は「注目」の美徳である。
それは預言を理解することではなく、すぐに来るという約束を受け取った者としてのキリストへの愛着であり、それゆえ私たちはキリストを待っているのだ。
このことを行ってきた者は、自分にとってキリストがいっそうかけがえのないお方であることを見出し、喜んでこう言う。
「ああ、主がすぐに来られたなら!」
では私たちは、自分たちの主を待つクリスチャンであるだろうか。
もしも主が今夜来られるとしたら、私たち一人ひとりに、「幸いなしもべがここにいる」と言ってくださるだろうか。
主は私たちよりもっと心から待っておられる、ということを忘れてはならない。
ジョン・ダービー
主が来られることを説いていないなら、福音の半分しか説いていない。
エドワード・デネット
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