2020年9月10日(木)
『さわった人たちはみな癒やされた。』マルコの福音書6章56節
日々の静思の時間に、私たち一人ひとりがせめて、主の衣のはしにでもさわれますように…。
人はそれをしたときに、そのことがわかるのです。
それはただみことばを読んだり、ただ祈ったりすることとも違います。
さわったとき、何かが起こるのです。
何が起こるのでしょうか。
誰にもわかりません。
わかっているのは、主から私たちに何かが伝えられたということ。
難しくてできないと恐れていたことをする勇気、あの癪にさわる人をがまんする忍耐心、できないと感じることを実行する不屈の精神、優しさと心の平安、幸せが伝えられた、ということです。
神の方法は、ご自身の書からあることばを取ってそれを活力とし、いのちとすることです。
すると私たちはそのことばに頼ることで、力から力へと進みつづけることができます。
もし神とともに進みつづけようとするならば、私たちの人生には、活力に満ちた信仰を求める新たなことが常に起こります。
けれども神の書の中には、今この場所で私たちと出会ってさらに先へと進ませてくれることばが、常に待っています。
それは最後まで続く戦いとなるでしょう。
神はそれを、「立派な信仰の戦い」と表現しておられます。
けれども、その戦いに勝利をおさめるために完全な備えがなされているので、私たちが対処している事柄が内的な生活に関係していようと外的な生活に関係していようと、何も恐れることはありません。
私たちに御国を与えることは、父なる神の喜びなのです。
私たちは打ち負かされる必要は絶対にないし、神の恵みによって決して打ち負かされることはないのです。
エミー・カーマイケール
信仰者は平安と喜びによってのみ知られているのではなく、苦悩における戦いによっても知られている。
その平安は独特のものだ。
それはキリストから流れてくるもの、天からのもの、聖なる平安である。
その戦いも同様に独特のものだ。
それは根深く、苦悶に満ち、死ぬまでやむことがない。
ロバート・M・マクシェイン
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