2020年8月25日(火)の手紙

2020年8月25日(火)


『しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」』マタイの福音書27章50節~54節


どんなに臆病な信仰者でも、栄光の主が死なれた驚嘆すべき十字架を信仰によって見つめ、のろわれた木にかけられている間、主が耐え忍ばれた苦しみに深く思いを馳せる間は大胆になる。

同様に、どんなに大胆な信仰者でも、その十字架を無視すると、臆病になる。
ペテロとアリマタヤのヨセフの例が、そのことをよく表している。

ペテロは非常に大胆だったので、こう言った。
「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません……。
たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」

それからまもなく、イエスが捕らえられ、連行されるとき、ペテロは「イエスを見捨てて逃げてしまった」皆のうちの一人だった。

ペテロがイエスの「後について…行った」ことは本当だが、それは「遠くから」だった。
そして次の段階では、嘘ならのろわれてもよいと誓って自分の主を否定した。

ところがアリマタヤのヨセフは、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたにもかかわらず、「勇気を出して」ピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出たのである。

なぜ、この臆病な弟子がこれほど大胆になったのだろう。
それは十字架をじっと見つめ、師であり主であるお方の苦しみを目撃したからではないだろうか。

それは今でも同じである。
私たちは、主と主への奉仕のための大胆さを欠いてはいないだろうか。

あの驚くべき場面に想いを馳せる恵みを、信仰によって求めようではないか。
自分の主を守るために剣を抜くほど大胆だったペテロは、どのようにして主を見捨てるほど臆病になり、主を否定するほど忘れっぽくなってしまったのだろうか。

それは十字架を理解していなかったからではないか。
そして今もなお、そうなのではないだろうか。

主の小さき者たちのためのパン屑


この世……は私たちにとって、今やイエスの空っぽの墓にすぎない。

ジョン・ダービー


a:77 t:1 y:0