2020年8月11日(火)の手紙

2020年8月11日(火)


『わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。』詩篇42篇5節


クリスチャンがしばしばうなだれるのはどうしてか。

私が言っているのは、途上で出会う労苦や悲しみや悲嘆のゆえにひどく圧迫されているというよりも、主のことを思って神の前にいるのにもかかわらず、天の国とのつながりを忘れて気落ちしていることである。

なぜ彼らが属しているお方、彼らのよりどころであるお方のあふれるばかりの新たな喜びがなく、雲が薄暗く心をふさいでいるのか。

それはまさに彼らが現在、聖霊によって天を見上げることに失敗し、そのためにこの世を荒野として見下ろすことができないからにほかならない。
どれほど生ける水の川が流れていたとしても、この世は荒野なのである。

彼らはイエスが何を与えてくださったかを忘れ、地上を望ましい場所として眺めている。

なぜキリストがここで高く上げられないのか。
なぜキリストと私たちが今ここで栄光の名を得ることができないのか。

そうではないのは、主の時がまだ来ていないからだ。
そして私たちの時もまだ来ていない。
私たちはキリストと一つになっているからだ。

この世において、主にとって人間の時とは、あざけりと拒絶と死だった。
それが人間の間での主の運命だった。

私たちの運命もこの世で無となることだ。
それは今、完全に蔑まれ、人々から憎まれることである。

この世に、これよりましなものが何かあるだろうか。
キリストご自身が体験したことと、比較できるものがあるだろうか。
そんなものはありえないことを主はご存じだった。

だが少なくとも私たちは、主ご自身の恵みによって主を慕い、固く結びつくことができる。
そしてそのように引き寄せられながら、自分たちの小さな尺度において主の恵みを評価するのである。

ウィリアム・ケリー


『義の太陽』の輝きのすべてを享受することをこわがっているように見えるクリスチャンがいる。
幸せすぎることを恐れているのだ。

「喜び」それ自体が、御父が栄光をお受けになるための実の一部であるということを実際には考えられない人が、私たちの中にいるかもしれない。

落胆によって得られるものは何もない。
疑いは議遜のしるしではない。
信じないことは、本当は高慢の証拠である。

そして不信の厚い雲ほど、慈悲深い御父の顔の喜ばしい輝きを確実にさえぎってしまう雲はない。

エバン・ホプキンズ


ひとたび、主を私たちの始まりとして得たなら、人生の全行程において何もかも満ち足りた形で主がいてくださる。

今日、主を信じれば信じるほど明日に主を信じることはさらにたやすくなる。
疑いはアマレク人であり、私たちが乳と蜜の流れる地の中に相続地を議論の余地なく所有しようとするなら、絶滅させるまで激しく戦わなければならない相手である。

これから起こることが心配になるのは、信仰に疑いが混入したときだけである。
キリストにある人生について祝福されていることは、始まりにおいてだけでなく、全行程においてずっと平安でいられることなのだ。

エライジャ・P・ブラウン


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