2020年7月8日(水)の手紙

2020年7月8日(水)


''『あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別で
すが。』コリント人への手紙第二13章5節''


神こそが与えることのできる至高の恩恵、何にもまさる贈り物および宝とは何だろうか。

小さな子どもがあなたに贈り物をくれる。
それは、手製の鍋つかみのような小さなものかもしれない。
大した値打ちのあるものではないが、あなたにとっては大きな価値がある。
それは子どもが与えることのできるせいいっぱいのものだからだ。

あるいは、親戚の一人から贈り物をもらったとしよう。
その贈り物は二つのことを条件としている。
その人があなたに感じている愛と、与える能力である。
私たちは自分の能力に応じて与えるのである。

さて、天と地を所有する偉大なる全能の神が、ご自分の被造物の一つに、ほかのすべての贈り物にまさるものを… その源にふさわしい贈り物、それを与えるお方にふさわしい贈り物を授けたい、と願われるとき、キリストを、私たちの性質の内に永遠におられるように与えてくださるのである。

もしもあなたが偽りのクリスチャンなら、キリストはあなたの内にいない。
だが「自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。
あなたがたが不適格な者なら別ですが」。

これは神の至高の、最終的な贈り物である。
真珠の門でもなく、純金の大通りでもない。
天の国でもなく、罪の赦しですらない。

といってもこれらもまた神の贈り物で、王が王妃に与えるようなもの、すなわち十二の贈り物であり、それから王の身分にふさわしい至高の最終的な贈り物がくる。

それだから神は、12や24、いや1,000といった数ではなく、何十万ものおびただしい贈り物をご自分の幸せな民の前に置き、それからこの至高の贈り物をお授けになる。

私たちを、主イエスのご性質と人格の宝庫にされるのである。

A・W・トウザー


私たちはあるお方にあっていただいている恵みを、そのお方よりももっと考え、喜んでいるだろうか。
教理的な恵みについては、それが目新しいときはすばらしい魅力があり、しばらくの間たましいが活気づけられる。

だがその恵みの最初の喜びが消え去ると、定着の過程が始まるのである。

新しい恵みはどんなにわずかでもすべて、新しいいのちを私たちの内に入れてくれるように見える。
しかし、次第にその光沢と力は失われ、私たちはごく平凡なクリスチャンになる。
ほとんど成長しないのだ。

霊的に成長するのは、信仰によって主イエスを心の愛情の中に迎え入れるときである。
主が私たちの愛の内でより大きな場所を占めるとき、私たちは成長しつづける。

頭は一般的な神学的知識でいっぱいでも、主イエスへの心からの愛情をひとかけらも生み出せなければ、たましいは霊的にやせ衰えた状態のままである。

多くの人を惑わしているのは、聖書を読むことでキリストのようになる、変えられる、という考えだ。

ところが、みことばを熱心に学んでいる人々が、教理については何一つ間違ったことを言わなくても、恵みの中で成長して霊的現実の中を歩んでいるようには決して見えないことに、あなたは気がつくだろう。

この恵みの時代の祝福のすべては、人であるお方の内に包みこまれている。
そして私たちは神のことばという手段によって、自分の心があのお方の内にすべてを見出すことを学ぶにつれて、霊的に成長する。

私たちを愛し、私たちのためにご自分を与えてくださった神の御子の内に。

C・A・コーツ


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