2020年7月24日(金)
『こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。』出エジプト記14章30節~31節
「主はイスラエルを救われた」とは、どのような意味か。
それは、すべての敵が沈黙させられ、一人の敵も残らなかった、という意味である。
このことは、主イエス・キリストを信じるすべての者に当てはまる。
主は、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからである。
コロサイ人への手紙に述べられているように、「あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。
キリストはすべての支配と権威のかしらです」。
神の栄光を見上げると、決して罪を犯したことのない御使いたちのはるか上に、人であるお方が御父の右の座に着いておられるのが見える。
私の救い主であり、私の罪のために死に至り、私の死を死んで、今は死人の中からよみがえられた人の子を見るのだ。
私は主とともによみがえり、主の内に受け入れられている。
私の罪はどこにあるのか。
キリストの十字架の中に消え去った。
私の敵はどこにいるのか。
同じく消え去った。
そして救い主はどこにおられるのか。
よみがえられた。
では主の民はどこに?
同じく「キリストとともによみがえらされた」のだ。
救いは範囲のとても広い言葉である。
赦し、そして解放、そして平安、そして私が義と認められていると知ること、が含まれる。
これは、主が私の代わりに死んでくださったこと、私の罪を取り去ってくださったことを知るだけでなく、主が死なれたときに私も死に、主がよみがえられたときに私もよみがえったことを知ることなのだ。
神の救いを得、それを知ることはなんと祝福されたことだろうか。
主に救われたあと、イスラエルの民はこう歌った。
「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。
主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた」。
すべては、あのお方、救い主という人物と結び付いている。
キリストをもつ者は、神の救いをもつのである。
W・T・P・ウォルストン
今や天の栄光のうちに生きておられる人なるお方は、本当に私たちの心の対象になっているだろうか。
救い主を知ってしばらくの間、私は主のことをずっと昔に地上に生きて死んだ方だと思っていた。
ある親愛なる兄弟とともにひざまずいた日のことをよく覚えている。
その兄弟は、主イエスを天の栄光のうちに生きておられる人として私たちが知ることができるように、と祈ってくれた。
そして、私の心の現在の対象が天におられる、ということがわかってきたのだ。
私たちの心は、栄光を受けた主イエスが、私たちの輝く美しい対象となるまでは決して満たされないのである。
C・A・コーツ
キリストの胸もとに頭を寄りかからせている者はたくさんいるが、そこにあなたのための場所もちゃんとある。
サミュエル・ラザフォード
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