2020年7月19日(日)の手紙

2020年7月19日(日)


『あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。』コロサイ人への手紙3章4節


私たちは勝利しなければならないと知っている。
だから誘惑にあうと、用心に用心を重ね、警戒して祈る。
そのことに対して闘い、拒絶することが義務だと感じているので、そうしないと決意し、意思を最大限に働かせる。

しかし、それは私たちの勝利ではない。
キリストが私たちの勝利なのだ。

誘惑に抵抗するのに意志の力と決断は必要ない。
私たちのいのちであるお方に目を向けるのだ。

「主よ、これはあなたのお仕事です。あなたを頼りにしています。
勝利はあなたのものであり、勝利の誉れを得るのは私ではなくあなたです」。

私たちが勝利のようなものを得ることはしばしばあるし、そのようなことは誰もが知っている!

自分で勝利を達成したものの、神とのふれあいは妨げられ、平安はまるでない。
私たちの多くは、常に誘惑を恐れながら生きている。
自分がどこまで耐えられるか知っていても、残念ながら、キリストがどれだけ耐えることがおできになるかをまだわかっていない。

「ある時点までは誘惑に耐えられるけど、それを超えたらおしまいだよ」。

もし子ども二人が泣いても、母親はそれに耐えられる。
だがそれ以上の子どもが一緒に泣いたらお手上げだ。

それでも、泣く子どもが二人か三人かは、本当は問題ではない。
勝利を得ようとしているのは私かキリストか、だけが問題なのだ。

私だったら二人しか耐えられない。
キリストなら、一度に二十人が泣いても何ということはない!

キリストによって成し遂げられることは、どのようにしてそうなったのかと後で不思議に思われることなのだ!
このことはまた、神が幾らかの新たな理解とともに喜んで私たちに与えてくださるものでもある。

ある日突然私たちは、キリストが自分のいのちであることに気づく。
その日、すべてが変えられる。
キリストの内に自分を見る日が来るのだ。

その後は何があっても、キリストの外にいる自分を見ることはできない。
それはすべてを変える。
それから、内におられるキリストが私たちのいのちであることがわかる日もある。

それもまた、私たちの観点をすっかり変える。

この二つは、間をあけた別々の日になるかもしれないし、同じ日になるかもしれない。
しかし両方の日を知らなければならないのだ。

そしてそのとき、キリストの満ち満ちたさまを知りはじめ、それまであまりにも愚かだったために神の宝庫の中にいながら貧しいままでいたことに驚きはじめるのである。

ウォッチマン・ニー


キリストと私を別々の二人だと考えた瞬間、私はいなくなる。

マルティン・ルター


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