2020年6月8日(月)の手紙

2020年6月8日(月)


『なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり 心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙(バカ)の谷を過ぎるときも そこを泉の湧く所とします。初めの雨も そこを大いなる祝福でおおいます。彼らは力から力へと進み シオンで神の御前に現れます。』詩篇84篇5節~7節


詩篇の著者は「バカ(ぶどう搾りの意)の谷を過ぎる)ことについて語っています。
実はそれは、神の子どもたちが神の子羊に従いつづけているときに、時おり過ぎることにすぎません。

けれど神のいのちにますますあずかり、神の力が与えられるにつれて、泉の湧く所を知っている人たちは、ぶどう搾りの喜びを与えるにふさわしいとみなされるたびに喜びます。

それは子羊であるキリストの喜びです。
主は十字架に近づきつつあったとき、悲しみにくれる小さな仲間たちにこう語ることができました。
「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために」。

その喜びが目前にあったから、主は十字架を耐え忍び、恥辱を軽く見ることができたのです。
神のみこころから、天の視点からカルバリを見ることによってのみ知ることのできる喜びなのです。

ですから「涙の谷」は「泉の湧く所」であることを知っている人々は力から力へと進み、一人残らず「シオンで神の御前に現れ」るのです。

そうです、新約聖書で使われている言い回しを借りるなら、彼らは一人残らず、「キリストとともに神のうちに隠されているのです」。
彼らは自分のすべてを失うことによって高く上げられた打ち勝つ者だからです。

彼らは涙の谷を過ぎ、力から力へと進み、困難に陥って神のみに見出すことのできる源へと駆り立てられ、この世的な生活を失えば失うほど、ますますこの世が重要視するすべてのものから離れ、君臨する主とともに天に住むようになるのです。

このように、子羊の道におられる神の御子と一致することは、人の目を奪うしるしとなり、また不思議となることよりも、むしろペンテコステの聖霊によって満たされることの目的なのです。

「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなた方は力を受けます」。

これはよみがえられた主の弟子たちへの約束であり、主が「ご自分をとこしえの御霊によって神におささげになった」ように主に従うすべての者たちも同様に主に従い、その姿… 子羊の姿と一致するために、聖霊の力を必要とするという一面を、確かに表しているのです。

もっとも重要なことは、神の御霊が導いてくださった聖なる生活という段階において、私たちが御霊に協力することです。

以前よりも前進したように見える経験を追求することで、私たちの霊的な進展が後戻りしてしまう可能性があります。
実際には少しも進んでいないからです。

神を信じる者への神の究極の目的は、その人を強力に用いる道具とするよりも、むしろ、その人の内に、主のご性質のすべての面について最大限にキリストを顕現させることであり、これは主の苦しみをともにするぶどう搾りの谷においてしか成しえないことなのです。

「キリストは弱さのゆえに十字架につけられ」、カルバリでは群衆を興奮させるような「しるしと不思議」は、主によって行われませんでした。

けれどもご自身の弱さと、苦しくても口を開かない羊のような沈黙と、注ぎ出された主のいのちによって、主はガリラヤで病人を癒やし、悪霊を追い出したときよりもっとこの世のために働いてくださったのです。

ああ、どうかこの純粋な美しい模範が、「神の最上のもの」と自分たちが呼ぶものを強く求めている熱心な神の子どもたちに明かされますように。
それは戦うことではなく、死ぬことによって闇の軍勢を打ち負かす「子羊のようなキリスト」のお手本なのです。

そして、このすばらしい子羊である主キリストのようになるためには、カルバリを目で見ることによってではなく、あるいは主の十字架の苦しみに入るという突然の神秘的な体験によってでもなく、生活の鍛錬によって毎日、毎時間、神のみこころを選びとることによって私たちにもたらされるのです。

そのみこころとは、多くのことで訴えられたとき何も答えようとされなかったこと、人間には知られていない隠された静かな犠牲の道、正しいことをしても、そのことのために死に値する悪人として苦しまれたことでした。

ジェシー・ペン=ルイス


使徒たちの時代がそうであったように、今日も聖霊が目を見張るような形で顕現されることが求められている。
だがそれよりもっとすばらしい形の聖霊の顕現や聖霊が内住する否定しがたい証拠は、栄光の訪れに望みをおいて生きる、冷静で義なる聖い生活なのである。

祈りとは、これやあれをお与えくださいとか、これやあれの結果をお願いしますというよりむしろ、キリストご自身を私たちに、そして私たちを通して他の人々に現してくださるように願うべきなのだ。

W・F・E


信仰とは、神の御腕を動かし、奇跡を起こすために人が備えている力ではない。
信仰は静かな導きを受け入れる。
不信仰だけが奇跡を要求するのだ。

真の信仰の中には、肉の性質が誇れるものは何もない。
力は神のものだ。
それをご自身の知恵とみこころに従って働かせ、行ってくださるのは父なる神である。

信仰とは御父に託した絶対的な信頼であり、それによって神がみことばを成し遂げてくださるという確信が与えられるのである。

A・H


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