2020年6月3日(水)の手紙

2020年6月3日(水)


『もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。』ローマ人への手紙8章13節


私はクリスチャン生活において段階をよしとしたことは、これまで一度もない。
もっとも一部の人々にとっては役立っているようだが。

私のやり方はほとんどの場合、神の約束に信頼して、ただ飛び込むというやり方で、段階は神にゆだねてきた。
そうはいっても、今よりもっと満足のいく、神に支配された生活を求める人たちのために、幾つかアドパイスをしてみよう。

まず最初は、すべてをいとも真剣に受け入れる、と決心することだ。
私たちの中には、キリスト教信仰をいいかげんに扱っている者があまりにも多すぎる。
救いを、選ばれし者のサークルへの入会を認める一種の会員バッジのようにつけているだけで、ちゃんと立ち止まって、自分の全生活を神が私たちに求めておられることに真剣に集中させようとすることはめったにないのである。

二つ目は、あれこれ考えずにあなた自身を神に投げ出すことだ。
何もかも放棄して、あなたの野望や計画や所有物のすべてを、死に至るまで明け渡す、と覚悟することである。

これは文字どおりそうせよ、ということだ。

単にどのように明け渡すかという技術的な面だけで満足してしまうのではなく、決然とした祈りによって自分の事を神に迫り、ついには自分の人生の中で危機が発生し、すべてのことを自分自身から神へと実際に移すまでにならなければならない。

三つ目は、あなたがどんな人間であり何を所有し、何を行っているかに対しての名誉や栄光や称賛はいっさい求めない、と固く誓うことだ。
神がいついかなるときもすべての誉れを得られるように注意することである。

四つ目は、中傷したり迫害したりする人たちに対して自己弁護をしないと決意することだ。
あなたの評判は神の手にゆだね、そのままにしておくことである。

五つ目は、情欲や肉欲を制することである!
すべての信徒は、神のさばきという点ではキリストとともに死につけられたが、これは今ここで勝利するためには十分ではない。
肉欲の力からの解放は、私たちが信仰と自制によってそのような死を現実のものとしたときに初めて得られるものだ。

自己に対して現実に死ぬことは苦痛であるが、そのおかげで我が身は取るに足らぬものであり、塵に等しいものだ、と思えるようになる。

この険しい道をたどる者は多くはないが、そうする者たちは称賛に値するクリスチャンである。

A・W・トウザー


キリスト教の唱道者となることと、その弟子となることとはまったく別だ。
最初は奇異に聞こえるかもしれないが、その教えを自分が学ぶよりも人に教えるほうがはるかにやさしいのである。

J・G・ベレット


a:107 t:1 y:0