2020年6月26日(金)
『祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりその人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。』ヨハネの福音書7章37節~39節
キリストとの親交のないたましいの不断の努力ほど悲惨なものはない。
私たちは非常に忙しくしているかもしれない。
手は仕事でいっぱいで、足はあちらこちらと走り回り、頭は知識でいっぱいかもしれない。
だが、もし心がキリストというお方で生き生きと占められていないなら、個人的なことに関してはすべて不毛で荒れ果てたものになるだろうし、なるにちがいない。
そして他の人々のために「生ける水の川」が流れ出ることはないし、ありえない。
不可能だ。
もしも私たちが他の人々にとって恵みとなるべきであるなら、自分のためにキリストを糧としなければならない。
私たちはほかの人々のために「飲む」のではなく、自分の渇きを癒すために飲む。
そして飲むにつれて、川が流れ出る。
キリストで心が満たされている人を見せてくれるなら、私たちは、いつでも仕事を始められる手と、すぐに走り出せる足を持っている人を見せよう。
しかし、キリストとの心のふれあいから始めないかぎり、私たちの走りも行いもみじめな失敗となる。
そこには神への栄光はなく、生ける水の川もない。
自分の道徳的なあり方のもっとも内なる部分から始めなければならない。
その部分が信仰によって生けるキリストで占められなければならず、そうでなければ私たちの奉仕すべては、まったく価値のないものとなってしまう。
もしも他の人々に影響を及ぼしたいと思うなら、もしもこの時代と世代において祝福とされたいなら、もしも何らかの実を神のために生み出すことを願うなら、もしも周囲の道徳的闇の中で光のように輝きたいなら、もしも不毛の砂漠の真ん中で恵みの水路になりないなら、そのときは、確かに、主のことばに耳を傾けなければならない。
水源で飲まなければならないのだ。
するとどうなるのか。
さらに飲む、ずっと飲む、たくさん飲む。
すると川が流れ出るはずだ。
もしも私が「努力して、ほかの人たちにとって恵みの水路にならなければならない」と言うなら、私自身の愚かさと弱さとを立証したにすぎない。
だが、自分の空っぽの器を水源に持っていき、いっぱいに満たすなら、何の努力をしなくても川が流れ出るのである。
C・H・マッキントッシュ
どうか主が、私たちを低くし、低いままでいさせてくださるように!
また、栄光の内にいる主ご自身を私たちに見せて、この世のすべてのものが、まだ来ていない穀物とぶどうの収穫の時を待っている、と私たちの目が常に判断するようにしてくださるように。
私たちの喜びは主の栄光の中に来ている一方で、その時より前に私たちに与えられている聖霊の中にも来ている。
私たちは、天の栄光の内におられるイエスを知り、私たちを現在の栄光の力に導くために、すでに聖霊を送ってくださっていることを知っている。
どうか、私たちが主を証しする器となれるように!
そのためには川がもっと自由に流れ出るように砕かれる必要があるが、それでも主ご自身の恵みと栄光をほめたたえるために生ける水の川が流れ出る水路となれるように!
ウィリアム・ケリー
a:70 t:1 y:0