2020年6月17日(水)の手紙

2020年6月17日(水)


『涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え 泣きながら出て行く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。』詩篇126篇5節~6節


主を愛する者で泣かない者は一人もいない。
罪人に共感して泣き、神の栄光を願って泣き、敵に打ち勝つことを熱望して泣く。

もちろん、主を喜ばせたいという心のない者には、そうした経験はない。
しかし、心を主の働きに置いている者は、誰もが必ず泣くはずだ。

エレミヤは旧約聖書で主に大いに用いられた預言者の一人である。
彼がそうした誉れを得たのは多くの涙を流したからだ。
神の子どもたちのことをあまりにも心にかけていたので、昼となく夜となく泣いていたからである。

涙が私たちにとってなくてはならないものであることは間違いない。
この世界を洗い清めるためには、多くの涙がきわめて必要だからだ。

多くの若いクリスチャンたちが、涙によって育てられ訓練されることを必要としている。
霊的な生活は涙によって維持される必要がある。

おびただしい罪人たちが、涙とともに彼らの心の中に福音の種が蒔かれることを必要としている。
泣くことなしには、何も成し遂げられない。

今日のクリスチャンの聖別は十分ではない。
自分の身体と力、金銭と時間をささげる者は多いが、涙をささげられずにいる。
多くの働きが不完全であり、育成されずにいるクリスチャンが数えきれないほどいることは何の不思議もない。

もしも私たちがこの働きのために涙を流したら、どんな結果になるだろう。

ぜひ気づいてほしいのは、涙は永遠に流されるものではないということだ。
涙には止まる時があるからである。

次の聖句を心に留めてほしい。
「主はこう言われる。
『あなたの泣く声をとどめ、あなたの目の涙を止めよ。
あなたの労苦には報いがあるからだ。
主のことば
彼らは敵の地から帰って来る」。

私たちがこの働きのために涙を流したら、私たちには「報いがある」と、神は言っておられるのだ。

ウォッチマン・ニー


思い悩む心を、キリストに明け渡せ。
喜んで迎え入れてくださるからだ。

サミュエル・ラザフォード


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