2020年6月15日(月)の手紙

2020年6月15日(月)


『私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。』テモテへの手紙第二2章13節


イエス・キリストが望んでおられるのは、私たちの助け手となることではない。
私たちの人生となることである。

主が望んでおられるのは、ご自分のために私たちが労することではない。
私たちを通して主がみわざを行えるようにすることだ。

ものを書くときに鉛筆を使うように、私たちを用いること、いや、それどころか、主の御手の指のどれかのように私たちを用いることを、望んでおられるのである。

私たちの日々の生活がキリストによる生活ではなく、キリストのいのちそのものであるとき、私たちの生活は勝利の生活となる。
なぜならキリストが負けることなどありえないからである。

勝利の人生とは「御霊の実」を結ぶ人生であり、仕える人生である。
それは結局のところ、人生のわずかな部分、それも全面的に消極的な部分であって、克服されなければならない。

また、キリストが私たちのいのちであるなら、私たちは品性においても奉仕においても御霊の実を結ばなければならない。
私たちはそうすることができる。
キリストは「あなたがたのいのちである」と言われているからだ。

キリストは「ご自分を否むことができないからである」。
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために……来たのです」。

キリストが私たちを通して、私たちを用いて他の人々に仕えてくださるようにすることで、今や、まったく新たな種類の奉仕が私たちのものとなる。
そしてこの御霊の実を結び、仕えることはすべて、主にある信仰によって習慣的に恒常的に行われなければならない。

私たちの働きは、私たちの内に主のいのちが宿っている結果であり、そのいのちが宿るための条件でも秘訣でも原因でもないのである。

ゆえに、キリストを私たちの満ち満ちたいのちとして迎える条件は二つだけだ。
もちろんそれは、主が流した血とその死によって私たちの身代わりに罪を負ってくださり、罪の結果と罪の意識から救い出してくださった救い主として、キリストを私たち一人ひとりが個人的に受け入れてからのことである。

⑴ 私たちのすべて、また私たちがもっているもののすべてを支配するお方として、キリストに無条件に自分をゆだねきること。
そして私たちの全生涯において、いかなるときにどんな犠牲を払おうとも、主のすべてのみこころをなしていただく備えが今や整った、と告げること。

⑵ 神が私たちを罪の律法から完全に解放してくださったこと、それも『これから』解放してくださるのではなく、『すでに』解放してくださったと信じること。
信仰の静かな行為であるこの二番目のステップに、今やすべてがかかっている。

真の信仰とは、感情や証拠がまったくないときでも、神を信じることだ。
なぜなら神のみことばは、みことばについてのいかなる証拠よりも安全で確かですぐれているからである。

私たちは必要とあれば、目で見る証拠や感情に左右されない信仰によって、こう言うべきなのだ。
私は、主イエスが『今』私の必要を(私の信仰の必要さえも)すべて、 満たしてくださっていることを知っている。
主の「恵みは私に十分である」からだ。

そしてキリストご自身こそ、主のどんな恵みよりも主が与えてくださるどんな力や勝利や奉仕よりもすばらしいことを心に留めよう。
キリストは霊的な力を生み出されるが、その力よりもすぐれておられる。

キリストは神の最上のものであり、私たちは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」ように完全に自己を放棄して主にゆだねきり、主に私たちの内にいていただくことができる。

あなたは、そのように主を迎え入れようとしているだろうか。

チャールズ・G・トランブル


キリストの御手によるほかに、これまで一つでも恵みが見出されたことがあっただろうか。
あなたは主が与えてくださる恵みのほかに、一つでも願うことができるだろうか。

ジョージ・V・ウィグラム


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