2020年6月13日(土)の手紙

2020年6月13日(土)


『私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。』ピリピへの手紙3章8節


クリスチャンの完全さは、あなたが考えているような厳格で退屈で窮屈なものではない。

求められているのは自分自身を心から神にささげている人であり、このことが達成されれば、その人が神のために行うよう求められていることが何であろうと、すべて直ちにたやすくできるようになるのである。

完全に神のものである人々はいつも満たされている。
神が望むことしか望まず、神が求めることはすべて行う備えができているからだ。

いつでもすべてのものを自分から剥ぎ取る覚悟があり、そうした裸の状態に百倍のものを見出す確信がある。

この世の苦難の只中にあって、神の真の子そもたちが備えているこの百倍の幸せを成り立たせているのは、やましさのない安らかな良心、自由な霊性、神への完全な喜ばしい服従、心の中で神の光がますます強くなっていくことを感じる喜び、この世的なことに対するあらゆる恐れと熱望からの完全な解放なのである。

彼らは犠牲を払ってはいるが、神を一番に愛している。
苦しむことを厭わず、そうした苦しみはこの世のどんな喜びにもまさることを理解している。

身体は病み、頭は衰えて萎縮するかもしれないが、意志は固く、くじけることはない。
そして神が選び取られたどんな問題にも、喜んで『アーメン』と言うことができるのだ。

フランソワ・フェヌロン


神はあなたをキリストのそばに呼びよせられた。
今この時代、キリストは逆風をまともに受けている。

あなたも主とともにいるからには、丘の、風雨から守られた、日のあたる側にいられると期待することはできない。

サミュエル・ラザフォード


私たちの心はひどい悲しみの試練を受けているだろうか。
私たちの父なる神は、その悲しみの一つひとつが私たちにとってキリストへの道となるように意図しておられるのだ。

そのおかげで私たちは主に至ることができ、それがなければ私たちのたましいが知ることのなかった主の愛と力という徳性を知ることができるのである。

C・A・コーツ


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