2020年6月10日(水)
『ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。』コリント人への手紙第二9章15節
私たちが理解しておかなければいけないことが一つある。
それは、勝利は「賜物」であって報酬ではない、ということだ。
賜物とは何か。
制限なく、あなたに与えられているものだ。
あなたが労働を通して得るものは報酬である。
一方、賜物はあなたの側に何の努力も求めない。
賜物が受け取る側に何の要求もせずに無償で与えられるのに対して、報酬はそのために誰かの働きを要求する。
私たちが話題にしている勝利の人生は、あなたに何の努力も求めてはいない。
勝利は神が私たちに与えるために備えてくださっているものだ。
私たちの勝利は無償で得られるもので、自己努力によって獲得するものではない。
私たちクリスチャンは深刻な思い違いをすることがあまりにも多い。
救いは無償で与えられるが、勝利が得られるかどうかは自分自身にかかっているのだ、と。
私たちは、自分の長所や働きをどれほど足して加えても救いを獲得することはできないことを知っている。
ただ十字架のもとに来て、主イエスを私たちの救い主として受け入れなければならない。
これこそが福音である!
私たちは働きによっては救われないことを理解しているものの、聖化については救われたあとによい働きをしなければならないと理屈を考えている。
これは、働きによっては救われないが、勝利を得るためには働きをよりどころにする必要があるということだ。
ここで言っておきたいのは、あなたが働きによって救われるのではないのとまったく同じように、働きによって勝利することはない、ということである。
「あなたは良いことを……実行できない」と、神は断言しておられる。
キリストはあなたのために十字架にかかって死なれ、今あなたの内で、あなたのために生きておられる。「
肉によって生まれたものは肉」であり、神は人の肉的な性質から来るすべてのものを退けられる。
それなのに私たちはいつもこう考えてしまうのだ。
すなわち、救いは十字架上の身代わりの死によるものであるとはいっても、人生において勝利を得るためには、正しい行いをすることを考えなければいけない、正しい行いをしたなければいけない、正しい行いをしつづけなければいけないのではないか、と。
しかし私たちは何一つ正しいことはできないことを理解しなければならない。
勝利は神によって無償で私たちに与えられているものなのだから!
ウォッチマン・ニー
もし今いるところで勝利することができなければ、我々はどこにおいても勝利することはできない。
J・B・ストーニー
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