2020年5月9日(土)の手紙

2020年5月9日(土)


『私たちも、新しいいのちに歩むためです。』ローマ人への手紙6章4節


私たちが招かれているのは いのちだけではなく、歩み(ギリシャ語が意味するように「歩きまわる」こと)でもある。
ただ一人で座するためではなく、キリスト教を個人的に享受するためでもなく、歩むためなのだ。

四方八方から見える歩み、多くの人の目を私たちに向けさせる歩み、私たちが天に対しても地に対しても地獄に対しても「見世物になる」歩みなのである。

それは動かずに休止しているのでも、世間との付き合いを絶って閑居しているのでもなく、人々の只中で動きまわること、友とも敵とも接触をはかること、地上の大通りも裏通りも行き来することなのだ。

主人がそうであったように、しもべたちもそうならなければならない。

十字架につけられるまえに、主イエスは周囲を見まわして言われた。
「わたしについて来なさい」。

十字架につけられたあと、天の王座に着くまえにイエスは同じことを言われた。
「わたしに従いなさい」。

私たちは十字架に、そして王座にも同様に従っていく。
その両方に至る道は一本なのである。
だから、聖なる者となるためにはキリストのようにならなければならない。

そしてキリスのようになるためには、「御霊に満たされ」5.8)なければならない。
自分の内にキリストの思いをもつようになるためには、「鳩のように」イエスの上に下った御霊を同じようにもたなければならない。

それは内住し、内に働く同じ御霊、子とする御霊、いのちと信仰、真理、自由、力、そして聖なる喜びの御霊である。
この生き返らせてくださる力あるお方によって、私たちは生き返る。
「御霊による聖別によって」、私たちは聖められる。

主は、私たちの賓客としてみわざを行われる。
住まわずに働かれるのでもなく、働かずに住まわれるのでもない。
動揺するたましいに音楽が及ぼすような影響のみを発揮するのではなく、私たちのもとに来て、私たちとともに住まわれる。

主の力が行き渡るだけでなく、主の臨在に満たされることによって、私たちは完全に変えられるのだ。
それは単に私たちに議論をふきかけるのではなく、道義的勧告で影響を及ぼすのではなく、その聖なる御手の抗いがたい優しさで触れ、私たちを感動させ、主ご自身の活力を注ぎこんでくださる。

いや、それどころか、私たちの反抗や教えに従わない頑固さや不信仰にもかかわらず、生涯を通して私たちをご自身の汚れない聖さといのちで満たしてくださるのである。

キリストのようになるためには、なおその上に、主のことを学ぶ必要がある。
私たちは単にそうなろうと努めるだけでは自分自身を聖くすることはできないし、ましてや単なる努力の力だけでは信じ愛するようにはなれない。

どんな力をもってしても、このことを成し遂げることはできない。

人は聖くなろうと努め、失敗する。
直接の努力によって自分を聖くすることはできないのだ。
聖なる対象を凝視しなければならない。
そうすることで「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて」いくのである。

人は聖なる存在を心の友としてもたなければならない。
イエスとの心のふれあいだけが、ヨハネの主との友愛のように、私たちをその弟子ヨハネやその主人イエスに似る者とさせてくれるのだ。

ホレイシャス・ボナー


主イエスにしっかりと目を据えよう。
決して視線をほかにさまよわせてはならない。

あなたと主の間に、この世のどんなつかのまの対象が入りこんできても、あたかも霧の中を見透かすように、それらをすっかり突き抜けて見ること、そしてあなたの目と心を主に、ただ主おひとりの上に定めることだ。

たとえどんな情況に陥ろうとも、天にも地にも主を隠させることがあってはならない。

ジョン・ハリス


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