2020年5月8日(金)の手紙

2020年5月8日(金)


『イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。…」ヨハネの福音書20章21節~22節


今日、クリスチャンの働きに実に多く組みこまれている「ショービジネス」は、教会が、私たちの主が抱いておられる弟子についての概念から遠く離れていく原因となっている、と私は思っている。

どうやら私たちの中には、誰もが目を丸くし口をあんぐり開けて「なんてすばらしい人なんだろう!」と称賛するような勇気と犠牲との実例となるようなこと、一種の象徴として、神のために飛びぬけてすばらしいことをしなければならぬ、という思いが染みこんでいるらしい。

そのためには神の恵みは必要ではない。
人間の性と人間の自尊心は、私たちに人生の多くの危機を切り抜けさせ、故郷を離れてキリスト教の奉仕のためにわが身をささげるという実に偉大に思えることを行わせるのだ。

「ああ、すごい人だ」と、世間は言う。
それには神の恵みは必要ない。
現身の人間たちに大いに受ける。

だが私が心の奥底から言いたいのは、単調な骨折り仕事や貧しさを経験し、誰にも注目されずに、世間から顧みられない高徳の士として生きていくためには、完全な神の恵みが必要だということだ。

というのも、クリスチャンとして働くとき、もしもこのような任務が背後にあるなら、常に私たちはひどい環境の、時にはうらぶれた人々の中で、ありきたりのことにも非凡であることを示すために遣わされることを覚えていなければならないからだ。

それを行うことができるのは、王の王に遣わされた人だけだ。
真の重荷を負った人だけが、それを引き受けるのである。

三年のあいだイエス・キリストと深くつながっていたはずなのに、弟子たちは全員、イエスを見捨てて逃げ出した。
彼らは自分自身の限界、自信過剰の限界にぶつかったのである。
そして、もし自分を少しでも変えたいなら、まったく違う精神を受け入れなければならないことに気づいたのである。

イエスは「彼らに息を吹きかけて言われた」
「『父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。』
…『聖霊を受けなさい』」。

あなたが今日、神のために行っている働きは主によって遣わされた働きだろうか。
もしそうでないなら、それをやめるには早ければ早いほどいい。

アラン・レッドパス


十字架にかかってくださったキリストを正しく認識することは、それが個々のクリスチャンの人生と行為であろうと、私たちの教会の奉仕であろうと、キリストは神に受け入れられるすべてのことの生ける泉である、と認識することだ。

心からキリストにつながり、主に専心することは、私たちを一個人としても一教会員としても特徴づけるはずだ。
さもないと私たちの人生と経歴は、地上ではどのように評価されようとも、天の審判においてほとんど無価値なものであることが立証されるだろう。

私たちは、キリストに熱心に献身することほど、個人的な歩みや特性に道徳的な力を与えるものを何一つ知らない。
それは単に、偉大な信仰の人や祈りの人、聖書を深く教わった研究者や学者、すぐれた伝道者、あるいは有能な著述家だということではない。

いや、それはキリストを愛する者である、ということなのだ。

C・H・マッキントッシュ


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