2020年5月31日(日)の手紙

2020年5月31日(日)


『そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。』ローマ人への手紙4章16節


聖霊に満たされることは、ひたむきに献身に励むことによってその資格を得たように見える傑出した聖徒だけのものではない。
悔い改めることを学び、イエスの血による完全な罪のきよめが今、自分たちに用意されていることを知った罪人や落伍者のものでもあるのだ。

ああ、神よ、感謝します。
この「悔い改める」という言葉は命令形だが、受動態である。

これはつまり、「(世界の相続人となることは、)信仰によるのです。
それは事が恵みによるようになるため」であり、さらには高みに達した聖徒たちだけではなく、私たちのような一部の弱く失敗だらけの者に対しても、「約束がすべての子孫に… 保証される」ことを意味している。

恵みが本質的にこの約束を確約しているのは、自分の失敗を認めている落伍者たちに対してであり、彼らは今そうすることができるのだ。

ある人がこう言っている。
「聖霊の満たしは、我々の信仰の深さに対する報酬ではない。
我々の挫折に対する、神からの贈り物なのだ」。

聖霊は、使徒の働き2章において、使徒たちの驚くべき働きの成果や報酬として与えられたのではない。
使徒の働き2章で、戸に閂をかけて集い、臆病者であることを、身をもって示したときに与えられたのである。

それだから、まず最初に自己改善をしようと骨折る必要はない。
なぜならそれは、聖霊を「信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたから」だ。

また、一部の人が考えてきたように聖霊を待つ必要もない。
つまり私たちが自ら進んで罪を「罪」と呼び、十字架のもとにそれを携えていくようになりさえすればいいのである。

聖霊はすでに与えられている。
確かに、昔の使徒たちは、「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と命じられたが、それは聖霊が与えられる歴史的瞬間がまだ来ていなかったからだ。

だが今、聖霊が与えられているからにはすべての人が聖霊に満たされることが可能であり、しかも今、満たされることができるのだ。

ロイ・ヘッション


聖霊に満たされていることは、クリスチャンにとって通常の状態である。
もしそうでないと言うなら、我々は神の前に自ら、へりくだらなければならない。

エドワード・デネット


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