2020年5月29日(金)の手紙

2020年5月29日(金)


『彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光です。』コリント人への手紙第二8章23節


宣教師になることはすばらしいことである。
初めての宣教師が宣教を広げていく現地を目にしたとき、明けの明星はともに歌い、すべての神の子らは歓声をあげる。

御使いたちが、その御前では自分たちの「顔に覆いを掛けた」神、愛に満ちた偉大なる神は、そのひとり子を宣教する癒やし主として地上に送られた。

人間たちの間にこれまで現れた中で、もっともすぐれた師であり、唯一の宣教師の模範であられる方の後に続く者となるのは、どれほど弱い者であってもすばらしいことである。

「神は、この方(イエス・キリスト)を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられ」、主は「王の王、主の主」となられた。

地上における任務で、神から与えられている宣教に匹敵するものがあるだろうか。

若き男女諸君が人生計画を立てるにあたって、宣教師となる計画に目をやるとき、あえて言わせてもらいたいことがある。
私に関して言うなら、神がそうした名誉な任務に定めてくださったことを喜ばなくなることは決してない、ということだ。

デービッド・リビングストン


ぼくはたった今、丘まで歩いてきた。
心が高揚している。
優しい木の影に抱かれるように立って、神を見つめ、神に栄光を帰し、今ひとたび自分を神にささげるのはすばらしい気分だ。

風が上着の裾をひっぱり、天の国が心に呼びかける。
クリスチャンとしてこれ以上、何を望むことがあるだろうか。

ああ、地上で神を知ることの豊かさ、喜び、途方もない興奮。
たとえ、二度と神に向かって声をあげることができなくなってもかまわない。
神を愛することが、神に喜んでいただくことが、できさえすれば。

おそらく慈悲深い神は、多数の神の子どもたちをぼくに与えてくださるだろう。
ぼくは彼らを広大な星の世界に導いて、その指先で星々を輝かせる神の麗しさを探求させるようになるかもしれない。

けれどもし、それがかなわなくても、神を見ることさえできれば、その衣の香りをかぎ、愛しいお方の目に微笑みかけることができさえすれば。

ああ、そのときに何よりも大切なのは、星々でも神の子どもたちでもない。
ただ神お一人なのである。

ジム・エリオット

(編集部註…1956年、南米エクアドルのアウカ・インディアンに福音を伝えようとしたジム・エリオットと四人の宣教師が殉教した。
ジムはまだ29歳だった。

彼の未亡人エリザベス・エリオットの著書『輝く門を通って(Through Gates of Splendor)』と『大能者の陰で(Shadow of the Almighty)』で彼らの伝道活動が語られると、その死は世界中に大きな反響を呼んだ。

この虐殺事件の後まもなく、多くのアウカ・インディアンがクリスチャンとなった。
この五人の宣教師の物語は、20世紀の教会史の中でもっとも感動的なものの一つである。)


キリストとの親交にほとんど関心を示さない者は、他人のこともほとんど愛しておらず、主を知らせたいともほとんど思っていない。

私たちのキリストに関する経験は泉であり、私たちの伝道の熱意は川である。
片方を見れば、もう片方の度合いも測れるのだ。

エグバート・W・スミス


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