2020年5月20日(水)の手紙

2020年5月20日(水)


『わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』ヨシュア記1章5節


私は聖さ、つまり日常生活における実際的な聖さは、恵みの手段をこつこつと用いることでしだいに得られるものだと思っていた。

聖さほど私が望み、必要としていたものはなかったのに、いかなる手段を尽くしても、とうてい得ることはできなかった。

必死に追い求めれば追い求めるほど、私の手をすりぬけてしまう。
ついには希望そのものまでが消え果ててしまい、私はこんなふうに考えるようになった。
ひょっとしたら、天国をさらに魅力的なところにするために、神はこの地上には天国を与えようとはなさらないのかもしれないと。

私は自分自身の力でそれを得ようと頑張っていたとは思わない。
自分が無力であることはわかっていた。
私は主にそう告げて、助けと力を与えてください、と願った。

時には、神が私を守り支えてくださる、ともう少しで信じそうになることもあった。
だがある晩、過去を振り返ったとたん、ああ、そこには神の前に告白し、嘆き悲しむ罪と過ちしかなかった。
……私は自分に必要なものはすべてキリストのうちにあると確信してきたのだが、実際的な問題は、どうやってキリストからそれを『取り出すか』ということだ。

主は真に豊かだったが、私は貧しかった。
主は強かったが、私は弱かった。
私はわかりすぎるほどわかっていた。

根や茎には豊かに養分がある。
だが、それをどうやって私の発育の悪い痩せた小枝にもたらすか、が問題だということを。

しだいに光がさすように私にもわかってきた。
信仰だけが唯一欠かせぬものであると。
それはつまり、主の満ち満ちた豊かさを手でつかんで自分のものにすることである。

だが私には、その信仰がなかったのだ。

私は懸命に信仰を求めたが、自分のものにはならなかった。
信仰を働かせようとしたが、無駄だった。
私たちのかけがえのない救い主の豊かさである恵みが、イエスによってさらに驚くほど豊かに蓄えられていくのを目にしているのに、私の罪の意識と無力感は増していくようだった。

犯した罪は、不信仰の罪に比べればささいなことにすぎないように見える。
不信仰は罪の原因であり、神をみことばどおりに受け止めることができない。
もしくは受け止めようとはせず、それどころか神を嘘つき呼ばわりするのである!

私は、不信仰こそこの世の忌むべき罪であると感じていたのに、それにふけっていた。
信仰を求めて祈ったのに、得られなかった。
私は何をすべきだったのか。

たましいの苦悩が最高潮に達したとき、親友のマッカーシーからの手紙の一文を読んで、私の目から鱗のような物が落ちた。
神の霊が、『私たちはイエスと一つであるという真理』を、それまで私がまったく知らなかったほどに明らかにしてくださったのだ。

マッカーシーは同様の失敗に大いに悩まされてきたのだが、私より先に光明を見出したのである。
手紙にはこうあった(これは記憶を頼りに書いている)。

「しかし、どうやったら信仰を強められるのか。
信仰を求めてがむしゃらに頑張るのではなく、『真実』な方にゆだねることだ」。

手紙を読んでいくうちに、私はすべてを理解した!
「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である」。

私はイエスに目を向け、こうおっしゃるのを見た(ああ、そのとき、どれほどの喜びがあふれ出たことだろう!)。

「わたしは……あなたを見捨てない」
ああ、あの状況の内に憩いがあったのだと私は思った。

私は主によって安息を得ようとしてむなしく頑張ってきた。
もうこれ以上頑張らなくていいんだ。
だって、主が私とともに住むと約束しておられるじゃないか。
「あなたを見放さず、あなたを見捨てない」と。

親愛なる諸君、主は決してあなたを見捨てたりはなさらない!

ハドソン・テーラー


ある日、ニューヨーク市で……ああ、なんというすばらしい日だったことだろう!
どんなにすばらしかったかうまく説明できないので、めったに言及することはないのだが。
口にするにはあまりにも聖なる体験だったので、神がご自身を私に現されたとしか言えない。

もう手を留めてください、とお願いしなければならないほどの、神の愛を体験したのである。

そして私は説教を再開した。
話そのものは何の変わりもなかった。
これといって新しい考えを述べたわけでもないのに、何百人もの回心者が起こされたのである。

たとえグラスゴー全市を進呈すると言われても、私はあの祝福された体験以前の場所には戻されたくないと思っている。

ドワイト・L・ムーディー


私は1825年11月、今から70年近く前に、主イエスを信じる者となった。

回心後の最初の4年間は霊的に弱いまま過ごしたが、今から66年前の1829年7月に、100パーセント完全に心を明け渡すところに到達したのである。

私は自分自身を、完全に主にささげた。
名誉や快楽、金銭、体力や精神力をすべてイエスの足元に置き、神を大いに愛する者となった。
自分のすべてを神の内に見出し、この66年間、日常的な試練においても霊的試練においても、すべてそのようにしつづけてきた。

私の信仰は一時的な恵みだけではなく、すべてのものに関わっている。
常に神のみことばに立っているからだ。
このように、私をここまで支えてきたのは、「神を知ること」と神のことばなのである。

ジョージ・ミュラー


クリスチャンの中には、常に過去を振り返っている人がいる。
現在を楽しんではいないからだ。

また、ジョージミュラーやハドソンテーラーのことならすぐにも話そうとするのに、自分自身の祈りの体験例をあげようとはしないクリスチャンもいる。

しかし、ハドソン・テーラーが生きていたのはいつのことか。
ジョージ・ミュラーがこの世を去ったのはいつのことか。
彼の死とともに、全能の神も亡くなったのだろうか。

コリン・C・カー


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