2020年4月7日(火)の手紙

2020年4月7日(火)


『私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。』コリント人への手紙第二3章2節~3節


クリスチャン生活は、イエス・キリストの観点からでなければ説明できない。
もしもクリスチャンとしてのあなたの人生がいまだにあなたの観点から・・・あなたの個性、あなたの意思の力、あなたの賜物、あなたの才能、あなたのお金、あなたの勇気、あなたの学識、あなたの献身、あなたの犠牲、そのほかあなたのどんなものであっても説明がつくとしたら、あなたはクリスチャン生活を送っているかもしれないが、まだ、それを生きてはいないのだ!

もしもあなたが、あなたの観点から説明のつくクリスチャン生活を送っているとしたら、あなたは自分の隣の家に住んでいる人に差し出せるどんなものをもっているだろうか。

その隣人の生き方は 彼の観点から説明できる。
彼に関するかぎり、あなたは宗教的ということになるのだろうが、彼はそうではない。
キリスト教はあなたの趣味かもしれないが、彼の趣味ではない。
彼にとっては、あなたがどんなふうにそれを実践していても、すばらしいといって心に響くことは何もない。

あなたについては、彼を驚かせるようなことはいっさいなく、「わざわざクリスチャンになるなんて面倒なことをしなくても、今だって十分うまくやっている」と感じさせずにすむ、賞賛に値することも皆無なのである。

あなたが隣人に感銘を与える可能性があるのは、あなたの生活の質が彼らを驚かせるときだけだ。
あなたの生きている人生がきわめて推奨できるものであるだけでなく、いっさいの人間的な説明を超えたものであることが、他の人々に明らかにわかるようにしなければならない。

その人生は人の模倣能力の結果を超えており、他がどれほどわずかしか理解できなくても、それがあなたの内にご自身を再現することのできる神の力のみの結果であることを、彼らにわかるようにしなければならないのだ。

要するにこれは、あなたが語っている主イエス・キリストご自身があなたの生きている人生の欠くことのできない構成要素だということを、あなたの同胞が確信できるようにしなければならない、ということなのである。

イアン・トマス少佐


私たちはキリストを人々の心に、私たちの言葉だけでなく、私たちの人生によっても伝えることができる。
たとえ一行の聖句すら説明できなくても、私たちは「キリストを生きる」ことができる。

あなたは教会学校で教えたり、貧しい人たちを訪ねたりするかもしれない。
それはそれで結構なことだし、よいことだが、もっとずっとよいことがある。

キリストを生きること、キリストを表すことだ。

エドワード・デネット


キリストを生きよ!

たとえ、その道が
この世から見れば逆境であっても、
あなたの必要に心を留めてくださるお方が、
あなたのたましいに繁栄を与えてくださる。

キリストを生きよ!
たとえ、その道が窮乏の狭き通りでも、
「人の子には枕するところもなくても」、
それでも、最大の自由の中に生きておられた。

キリストを生きよ!
たとえ、あなたの一生が
多くの別れの中にあっても、
重き十字架は喪失と見えるものをもたらすが、
勝利の王冠を勝ち取る。

キリストを生きよ!
そうすれば、あなたの全生涯は
高き救いの道となり
この上なき慈愛によって金で塗装された、
善行の王の道となるだろう。

キリストを生きよ!
そうすれば、あなたの全生涯は
優しく励ましを与える伝道となり、
永遠に実を結ぶ、汚れなき純白の種を蒔くものとなるだろう。

ジョン・オクセナム


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