2020年4月5日(日)の手紙

2020年4月5日(日)


『主よ、あなたは 私たちのために平和を備えてくださいます。まことに、私たちのすべてのわざも、あなたが私たちのためになさったことです。』イザヤ書26章12節


すべての神の子どもたちには賜物と召命を含む特別な働きがあることは、聖書にはっきりと記されている。

マタイの福音書25章14節~15節に登場する男のことを思い出してみよう。
彼は「旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで」「それぞれの能力に応じて財産を預ける人」である。

マルコの福音書における同様の記事では、「家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ」ている。

この二つのたとえ話が私たちに語っているのは、すべての人に賜物が与えられ、すべての人にその人特有の仕事が与えられているということだ。

ペテロは、ペテロの手紙第一4章10節で「それぞれが賜物を受けている」と語っている。
ギリシア語の原文では、定冠詞はいっさい使われていない。

この状況では、このたとえ話には普遍的な意味があることを強調する効果がある。
主の子どもたちは誰もが賜物をもっていると、私たちに保証されているのである(なぜなら、この手紙は主の子どもたちに具体的にあてて書かれたものだからだ)。

永遠に考え抜かれて、そうした犠牲によって保証された神のご計画について思いをめぐらすことは不可能である。
ご計画に携わることになる者一人ひとりへの適切な仕事を保証してやれないだけでなく、適切な能力を保証することができないからだ。

そして「神の知恵」が反映されたものとして、各個人の能力に応じた仕事を行わせることで、その計画に含まれているすべての個人の完成が確保されるのである。

男女を問わず誰でも、自分の能力を最大限に効果的に用いて働いているとわかるとき、その人は個人として可能な最大の満足を得て、もっとも効果的に「成長する」ことだろう。

これが「神の道」である。
そして、神の子どもは定められた仕事を果たすまでは身体的な死を迎えることはない、とアウグスティヌスが語ったことは、ほぼ間違いなく真実なのだ。

まさにこれは、パウロがダビデについての意見を語ったときの趣旨であったかもしれない。
「ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えたあと、死んで……朽ちて滅びることになりました」。

神の子どもは「キリストのからだであって、一人ひとりはその部分」だという地位は決して偶然のものではないことを、神の啓示によって明確にしたのがパウロである。
それは神によって定められた地位であって、聖霊によって効果的に実現された。

パウロはこのことに関して全章を費やし、次のように語って、この原理を確言している。
「しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました」。

ゆえに私たちがその結果として得る賜物と召命は、どちらも神からのものであり、「取り消されることがない」。
確実でないものは皆無で、それについて神がみこころを変える可能性もまったくない。

賜物は、私たちに生まれつき与えられた遺伝的なものを神が支配し無効にすることで確かなものとされる。
それによって私たちは、自分たちが召された固有の役割を果たすために本質的に備えられるのである。

なぜなら、召しは救いのためだけのものではないからだ。

私は、ペテロは次の聖句で、この意味で召しについて語っているのだと信じている。
「ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい」。
「これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません」。

というのも、神が私たちに果たすように求められた役割を私たちが果たし、神が授けてくださった賜物を用いるならば、どうして失敗することがあるだろうか。

召し・・・すなわち、私たちの運命が定められた状況は、神の支配によるものだ。
もしもこれらの状況が困難なものとなり、私たちがほかの場所でならもっとうまくやれると思いこんだとしても、すぐに離れようとするべきではない。

私たちの運命の采配は、真に神の御手の内にあるからだ。

「それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。
……それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい」。

私たちの運命は主によって定められ、私たちの賜物は主によって定められたもので、私たちの一生の仕事は永遠にそこにおいて計画されていると知るのは、なんという安心感を与えてくれることだろう!

物事が遅れたり、失敗したり、不確かだったりするときに、このことを確信してさえいればいいのだ。
そうした確信は不活動につながることはない。
正しい確信をもって、自由に行動できるようにしてくれる。

卓越した神の恵みを確固とした基盤とする以外は、どんな信頼も場違いなのだ。

イザヤは次のように言っている。
「主よ。あなたは私たちのために平和を備えていてくださいます。
まことに、私たちのすべてのわざも、あなたが私たちのためになさったことです」。
アーメン!

アーサー・カスタンス


すべてのクリスチャンが、神から何か明確な招きを受けていることは間違いない。
難しいのは、自分は何が得意なのかを見極めることだ。
これがわかるのは、主のそばにいて主のためになることに関心がある場合にかぎる、と私は思う。

私たちはまず、主が私たちを大切に思っていてくださることを学ぶ。
それからだんだんと、主が大事にしておられることを大事にするようになっていくのだ。
そのとき初めて、あなたは人生における自分の使命を理解するのである。

J・B・ストーニー


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